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・女性向け二次創作サイト・「フルメタル・パニック!」宗介×かなめを取り扱っております・二次創作物、ノーマルカップリングの苦手な方、15才未満の方、荒らしさんはご遠慮下さい
 チョコレートより、甘いもの



 持ち上げたゴムべらからとろけ落ちる、ボウルの中のチョコレート。
 その香りがキッチンいっぱいに広がっている。隠しようもない、華やかでうっとりするような、甘い甘い匂い。
 計量してふるった粉類、大小のボウル、レシピのメモ、予熱中のオーブン、etc。
 とろとろのツヤを確認してからボウルをいったん置いて、空いた器をシンクに片づけて、とやってるエプロン姿のかなめの後ろで、宗介が金魚のフンか後追いの赤ん坊みたいにぺったりひっついて、その様子を覗っていた。
 作業しながらかなめは面倒くさそうに、水を向けた。
「あのさ、テレビでも見てれば?」
「いや、気にするな。続けてくれ」
「まったく…」
「これはまだ使わないのか?」
「メレンゲは最後。先に入れると泡つぶれちゃうから。そこ邪魔」
 ちっち、と指先で追うと一応は黙って退くものの、やはりかなめがボウルの中身をかき混ぜる様子を、宗介は子供のような熱心さで観察していた。
 正直邪魔くさい、とかなめは思う。
 買い物でも言いつけて追い出そうかと思ったが、外はあいにくの空模様で気が引けた。
 そんなにケーキが待ち遠しいんだろうか。でも夕食に宗介の好きなものを作ってる時でも、ここまで熱心に観察されることはないのだ。
 先日、宗介が「バレンタインとはなんだ」とかなめに聞いた。
 世間に疎いなりに、世間がバレンタイン商戦一色に沸いているのは、気になったらしい。見聞きした分で『女性が男性にチョコレートを贈る日』だと推測し、その確認をかなめに取ったのだった。
 そうよ、とかなめは肯定した。そうしたら宗介がえらく期待している様子なので、あんたにもチョコケーキかなんか作ってあげるわよ、と約束してあげたら、宗介は目をきらきらさせて、見えない尻尾をばたばた振ったのだった。
 そして今日はバレンタイン当日。
 事前に時間が取れずにチョコケーキは当日作ることになってしまったけれど、宗介はそういうものだと思って気にしていないようだった。
 気にしないどころか贈り物の製造過程をがっつり見学している。作業中のかなめの腕や材料などを触ったり構ったり、などの具体的な邪魔をされるわけじゃないのだけど、彼の期待のまなざしを浴びながら作業するのは、かなめとしてはやりづらい。実際、粉類を混ぜる繊細な作業中の背後にぺったり貼りつかれていると、ものすごく気が散る、気がするのだった。
「あのさ。やっぱリビング行っててくれない?」
「いや…手伝おうか」
「あんたが手伝ったら意味ないでしょうが」
「…そうだな。すまなかった」
 ぽりぽり鼻の頭を掻いたりして、宗介はなぜか照れたふうに顔を伏せた。
「なによ」
「いや、邪魔した。作業を続けてくれ」
 思いのほかあっさりと、宗介はかなめの後ろから一歩引いた。
 すごく喜んでくれてるみたいでそれは嬉しいのだけど、今更なのも分かってるけど、かなめはちょっとだけ不満だった。 

 ――チョコレートに思いを込めて。
 未だ寒い冬の只中だというのに、日本中が何処かしら浮足立つ季節。テレビCМでエプロンをつけたアイドル達が甘ったるい笑顔で囁いて、街の中も、パネルだったりポスターだったり、雑誌もお店の中も、女の子の意識も、チョコレートと華やかなリボンで溢れかえる。
 その2月に入ったある日、一人チョコ菓子の特集が組まれた雑誌をめくりながら、かなめはどうしようかな、と考えていた。
 あいつは、あたしの恋人で。チョコが嫌いじゃなくて、14日が用事が埋まっているわけでもないなら、バレンタインを無視する理由はないのよね、と。
 決してどうでもいいわけじゃないし、こういうイベントを毛嫌いする境遇にあるわけでもない。浮かれた感じも、嫌いじゃない。
 ただかなめの今までの人生、好きな異性にチョコレートをあげる機会が一回もなかった。
 小学生の頃、お父さんにあげたのはノーカウント。しかもお父さんは甘いものが苦手で、あげても即娘たちにリターンで面白くなかった。
 中学生になってはじめて好きになった先輩には、勇気がなくてあげられなかった。
 高校に入ってからは、女友達同士でチョコの交換なんてしたけれど、男子とはしていない。高2の春に宗介に出逢って、よく考えたら宗介と出会って以来今年が初めての、まともに迎えるバレンタインデーだった。
 クリスチャンでなくても(ないからこそ)クリスマスにケーキは食べたいし、ムーディな雰囲気でデートできればそりゃ嬉しい。けど相手はあいつだから、ムーディは無理だろうと諦めている。美味しいケーキ作って一緒に食べられたら、それはそれで楽しいからいいや。かなめのバレンタインのイメージは、それと変わらないノリだ。
 まあ、宗介にチョコレートをあげない理由はないのだ。相変わらず世間の一般常識に疎いところはあって、バレンタインも教えなければ知らないままのようだけど、一応、恋人同士だし。今はケンカもしてないし。彼は甘いものも好きだし、大きなチョコレートケーキを作ってやれば、喜んで食べてくれるだろう。
 宗介とは毎日顔を突き合わせていても、仲良くしてても、最近ちょっぴりマンネリ気味だった。宗介には当日まで内緒にしといて、びっくりさせてやっても良いかもしれない――そう思って、柄にもなくうきうきしていたのだ。
 宗介の方からその話題を向けられたのは予定外だったけど、それは別にいいのだ。
 なんでもあのエロ外人のクルツから、日本のバレンタインのなんたるものかを聞いたそうで、それもまあ構わない。宗介は未だ明らかな冗談を本気にする傾向はあるものの、あの彼の言うことは、簡単には信用しない。懸命だとかなめも思う。うら若き少女であるところのかなめにとっては、宗介の戦友だろうが美人の奥さんをゲットしてようが射撃の天才だろうがなんだろうが、クルツ=エロ外人の認識なのだった。しかし今回宗介がかなめに確認を取った、クルツのバレンタイン見解は、宗介をからかうとか不真面目だとかバッカじゃないの的なニュアンスはない、いたってまともなそれだった。まともすぎて拍子抜けしたほどだ。
 だから、その時は最初気付かなかった。
 プレゼントの制作過程を後ろから観察されていた現在、なんだかなあ、とかなめは思う。内緒にして驚かせてやろう、なんて言うちょっとしたお茶目とか情緒は、相変わらず分かんないのか、朴念仁め。俺も手伝うとか、いまいちわかってないんじゃないのか。
 宗介が悪いんじゃないけど。これだけ溶けたチョコレートの香りが濃いと、多分しばらく部屋の匂い取れなさそうだし、内緒で作っても宗介には絶対ばれてたに違いないけど。今更別にいいけど。
 今更じゃないのは、ボウルの中のふわふわのメレンゲが混ざったチョコレート生地。
 綺麗に混ざったのをまたゴムべらからふんわりとろけ落ちる様子で確認し、ふう、とかなめはため息をついた。
 お茶目とか、情緒とか、不満とか、そんなのはこの甘い香りみたいなものだ。キッチンに濃密に漂っていても、甘い味がそこにあるわけじゃない。
 ホントに甘いのは、ここでとろとろのツヤツヤになってるのだ。
 
 混ぜ終えたケーキの生地を円型に流し、とんとんと台に打ち付けて空気を抜く。
 予熱を終えたオーブンに入れて、タイマーを合わせた。
 やれやれと呟きながら、かなめが調理台をいったん拭いて、汚れたボウルをシンクに運んでいると、キッチンの隅にひょいと宗介が顔を出した。
「できたのか?」
「後30分。気になるなら、見てれば」
 かなめの指さす先のオーブンの窓を子供みたいに宗介は覗き、赤い熱源の色に目を細め、けれどあっさりそこを離れた。
 洗い物をするかなめの後ろににじり寄り、そして腕を伸ばして、きゅっとかなめを抱きしめた。ポニーテール気味に結わえた黒髪が宗介の目の前でさらりと揺れた。
「…、ちょっと」
「なんだ」
 洗い物したいんだけど、とかなめは肩を捻ってみるも、宗介の腕は外れない。明らかに洗い物の邪魔をしているのに、宗介は悪びれもせず長い黒髪に鼻先を擦りつけた。
 さっきは邪魔なりに邪魔しなかったのに、具体的に邪魔されて、髪を伝うくすぐったさにかなめは首筋をよじった。
「あ――あんた、ケーキが気になるんじゃないの?」
「それはそうだが」
「まだやることあるんだから、どいて」
 洗剤の泡の付いた手を避けて肘で肩を押しやられ、宗介は仕方なさそうに腕を緩ませる。
「俺も何か手伝うが」
「だから、あんたが手伝ったら意味ないでしょ?」
 ボウルと泡立て器を洗ったら、今度はクリームを作らねばならない。
 宗介が腕を下ろしたのを見届けてからかなめはまた流しに向き直り、洗い物を再開した。宗介はその後ろで、まだ調理台に放置されている材料の器などを手に取りつつ、質問した。
「これは余ったのか」
「それはまだ使う奴」
 泡立て器の細いワイヤの間をスポンジでこすりながら、かなめは声だけでチョコレート入りの器を牽制し、生クリームもよ、と追加した。
「それでチョコクリーム作って、ケーキに塗るの。つまみ食い禁止」
 ケーキが焼けたら、冷まして3段スライスして、オーソドックスにこってりたっぷりクリーム塗って、ココアパウダーを振りかける予定だった。
 作業しながらのかなめの口頭説明を受け、宗介はその材料らを一瞥し、ふむと唸った。
「つまり、まだかかるのか」
「そうね。ケーキ冷めてからだし、後1時間ぐらいじゃないの」
「…………」
 また、ふむと頷いて、宗介は口を閉じた。
 堪え性のない子供ではないのだから、不機嫌になったりはしない。美味しいものを作るには時間がかかる、と素直に納得した顔で、チョコレートの器を台の上に戻した。
 ただその代わりに、まだ洗い物を続けている、エプロンをつけたかなめの後ろ姿に、また懲りずに抱きついた。
「ちょっ…」
 かなめに抱きついたまま、宗介は片腕を伸ばして湯を止め、彼を押しやろうとするかなめの肩と肘を捕らえ、シンクに向かう身体をくるりとひっくり返してしまう。
「――ちょっと、ソースケ、」
「なんだ?」
「放して。まだ洗い物」
「今は空き時間なのだろう?」
「終わってないってば!」
 まだ泡だらけのボウルやらゴムべらやらが残るシンクに視線をやりながら抗議するも、宗介は構わずかなめの細い背中に腕を回す。
「それなら俺が後で手伝うぞ」
「だから、」
「片づけなら問題あるまい」
 宗介は正面から言い切った。
「…………、」
 かなめがまだ濡れた両手に遠慮しているのを知ってか知らずか、宗介は遠慮なくじゃれついてくる。
 彼の身体を押しのけも引き寄せもできずに、かなめは身体の脇に両手を浮かせ、かなめはせめてもの抵抗とばかりに彼を上目に睨みつけた。
 けれど宗介は怯むわけもなくかなめの視線を受け止めて、いつものむっつり顔から滲み出る上機嫌を隠そうともせずに見つめ返すから、かなめはなんだか落ち着かない。
 事実、ケーキが焼けて冷めるまでは空き時間だし(焼け具合を見張ったり、焼けてからも何かと気を使うことは多いのだけど)、けれどこんな風に感情をストレートに伝えられるのは、未だに慣れなくて、ちょっと悔しい。
 ケーキの焼ける匂いが漂う甘ったるい空気の中で、かなめはせめてシンクの方に視線をそらして、
「……あたしをせっ突いたって、早く出来るわけじゃないのよ」
「そうだな」
 浮かれ具合の分かる相槌を打ちつつ、宗介はかなめの頭を引き寄せて、ぎゅっ、と抱きしめた。
「千鳥」
「なによ」
「……いや。後に取っておくべきだな」
「あと?」
「いや。ケーキはまだ焼けないのか」
「…まだだってば」
 話をそらされたような引っかかりを感じて、かなめは顔を上げた。
 今じゃなく後ってことは、まだ焼けてもいないケーキのことではなくて、宗介は記念日のケーキを心待ちにする子供みたいに、単純にバレンタインのチョコレートが楽しみなだけじゃなくて――
「…そんなに、楽しみなの」
「ああ」
 ――行事としてのバレンタインを楽しみにしてる、と言うことだ。あの、クルツの言う。
 宗介の声が締まりない。今キスしたら、とろけたチョコレートの味がするかもしれない。
 かなめはまたため息をついて、横を向いた。
「なんで、よりによって変なこと聞いてくるかなあ…」
「変か」
「変じゃないけど…ヘン」
「意味が分からんぞ」
「もう、放してよ」
 なんだか恥ずかしくなって、かなめはもぞもぞ小声で抗議する。乾きかけた両手で宗介の胸を押しやると、宗介は、む、と口を引き結んだ。
「千鳥?」
「まだ洗い物…」
「手伝うと言ったぞ」
 ケーキが焼けるまでにはまだ数分あった。それ以上言い訳できず、かなめは宗介の外れない腕の中で、うう、と往生際悪く唸った。
 宗介は変なことを期待してる訳じゃない。色々と分かり切っていることを省いたふたりだけの会話の中で、かなめだけがもじもじと煮え切らないだけだった。
 キリスト教系の逸話が元になった、欧米諸国で広まっているらしいこのバレンタインと言う行事は、しかし日本では勝手が違う、と聞きつけた宗介は、今日と言う日を前に、その辺りに詳しいだろうクルツにも説明を求めていたのだった。
 その彼が日本で学生やっていた頃の常識としては、曰く、バレンタインに置いて、チョコレートは菓子屋の陰謀、販促目的でくっつけられたオマケで、メインとなるのは『女性が男性に愛を告白すること』なのだとか。しかし、
 ――普段告る勇気なくてもこう言うきっかけがあれば、って目論見は可愛いかもしれねーけどさー、好きでもねー女にチョコ貰っても告られてもウザいだけだったし、そんなのがわらわら寄ってくるし、いらねーよっても逆切れされるし、チョコ貰えなかった野郎は哀れっぽかったし、アレは本気でクソ面倒な日だったなー…
 と、金髪碧眼の色男は、私情を込めて当時を説明したのだった。最後の方は遠い目をしていた。
 幸いにして現在モテる男の苦悩など知ったことではない宗介は、意中の女性からであれば特に問題はない、と言った意味をその説明から抽出したのだった。
 そういうことを、事実か、とかなめに聞いたあの日、宗介はかなめの耳元で確認を取ったのだ。
 ――君もしてくれるのだろう?
 と。
 かなめはきょとんとして、それからじわじわじわと耳を赤くし、ようやく、といった調子で気付いて絶句していた。
 宗介は辛抱強く是か非かを問うた。かなめは明らかに挙動不審だったが、否定はせず、本当に真っ赤な顔で頷いた。
 そんなことがあった。
 だから今、宗介が、む、と唸った。
「…ひょっとして、君は嫌なのか」
「ヤじゃないわよ。でも…なんか、今更ってか…」
 何を今更、と言いたいのは宗介の方だった。未だにこの腕の中の彼女は、よく分からないことで意地を張る。
 キッチンなどでこうして抱き合って、じゃれあったりしている仲だというのに。
 なにもまた人前でアレコレやれだのと、非常識な注文はつけていないのだ。宗介の中でも、多方面で確かめたところでも、ふたりきりでするに限っては常識的な行為だった。宗介自身もわりと頻繁にする。
「しかし、君は了承したぞ」
「し、したわよ」
「君は俺が嫌いなのか?」
「んなわけないでしょ?だから、…こういうのは、なんつーのか…」
「……なんだ」
「…だって、改まって言うことでもないし……」
「俺はいつでも構わないのだが」
「……だって……」
「………」
「…………こういうのは、その、勢いがないと」
「…………」
 何を今更。
 宗介の理解は過不足の無い、どストレートに正解なのだ。
 宗介はまたか、とため息をついた。かなめにとってかなり失礼だったが、不機嫌そうなそれではなかった。
「君に限らず、女性はあまり素直ではないものらしいな」
「な、なにそれ」
「マオが絶対に言わない、と奴に愚痴られたことがあるのだ。しかしこの日があるなら、まあ問題あるまい」
「……な…」
 そうクルツに惚気られたのは1年前のことだ。宗介は当時自分のひもじい境遇からまず殺意を覚え、言下に相手にしなかったのだが、現在の満ち足りた境遇にあって、ようやく彼の言わんとすることを理解したのだった。
 こうして腕に抱きとめていても、いつも一緒にいても、機嫌が良くても悪くても、気持ちの正体を知っていたとしても、これは大事なことなのだ。けれどかなめはどう思っているか分からない。このことを下手に空気を読まずに促すと、臍を曲げて貝のように口を閉じる、彼の恋人は変わらずの意地っ張りなのだった。
 無理に言わせてもしょうがない。けれど言ってくれれば嬉しい。
 だから、つまり宗介は、かなめがこのバレンタインと言う素晴らしい儀式にのっとってくれるのだと期待している。
 かなめとしては油断していた、と言うよりは、そのことについては宗介が言いだすまで、なぜか全く考えていなかった。
 ――チョコレートに思いを込めて。
 そのフレーズを耳タコくらいに聞いていても、その意味はどういうわけかスルーだった。
 バレンタインのチョコレートは、どうぞで渡してありがとうで受け取るもの。すでに付き合ってるんだし、チョコケーキ用意してふたりで食べあって終わり、だと漠然と考えていたのだった。巷でこの日の大切さ、ロマンが騒がれていても、かなめの中の実際的なロマンチックに結びついていない――その意味では、かなめは宗介よりも鈍感だった。
 だってバレンタインチョコは女友達とお父さんくらいにしかあげたことないし、男の子はあんたにあげるのが初めてだし、などと今焼いているチョコケーキのレア度を訴えたところで、やはりバレンタインチョコを貰うのはかなめが初めての宗介には通じない。世間的にも常識的にも正当で至極まっとうなこのイベントを知り、ただわくわくと胸を膨らませているだけで、全く持って彼の期待に非はないのだ。
 別にヤなわけじゃなくて、でもそんな分かり切ったことわざわざ言うことでもないし、だから最近そういうの言ってあげてなかった。最近マンネリだとか、宗介もそう思っていたのかもしれない、とかなめは思った。
 …思ったけど、でも、こんな風に見つめられたら、言えるものも言えやしないじゃないの。
 かなめは唇を開きかけて、咬んで、やっぱり開けずにこつん、と宗介の肩におでこを預けた。
 焦れて、宗介はまたかなめの耳元で聞く。
「…そんなに、いやか」
 かなめは首を横に振った。
「勢いづけたいなら、俺も手伝うぞ」
「手伝うって――待って! もう、約束でしょ?!」
 ほとんど逆切れの勢いでかなめは叫び、湯気を吹かんばかりの顔を上げた。
 宗介はぱっと目元を綻ばせる。その目があって、また息を飲んで、
「…………」
「千鳥?」
「………う…」
 彼女が声を詰まらせる理由を全部知っているくせに、目の前の彼はただ期待に満ち満ちた態度で。
 その期待は、それ以外の打算などなくて、本当にそれだけの気持ちで、かなめはもう恥ずかしいのか嬉しいのか自分でもよくわからない。
「…………」
 また彼の肩に隠すように、もじもじと赤い頬をこすりつける。
「…ケーキできるまで、待って」
「了解」
 宗介は、満足そうにうなずいた。



 白い皿。レースペーパー。
 ふたりで食べてちょっと多いくらいだけれど、可愛いチョコレートケーキ。クリームで丁寧にデコレーション。
 甘い香りをふたりきりの部屋にふりまいて。 
 ケーキを挟んだ宗介は、それが欲しくて待っている。
 かなめは観念した。
 別に、イヤじゃないの。いつだって言うのが恥ずかしくてくすぐったくて、延び延びになってタイミングが計れなかった、それだけなの。
 バカみたいな理由に漏れる苦笑すら、甘い、気がする。
「…ソースケ」
「ああ」
「好きよ」
 なによりも、甘い言葉の告白。
 この日はそのための。
「俺もだ。愛してる」
 宗介が、嬉しそうに、甘く目を細めた。

end.



コメント:「glass mosaic」さまのにれの木立さまからいただきましたー!
     甘さにやられっぱなしであります…さすが公開告白・公開ちゅーのカップル…ッ!
     じまんするさ!ああじまんするとも(帰れ)!&皆さまご一緒に萌え萌えしませんか精神でご許可をいただきアップさせていただきました!
     にれの木立さま、素敵な作品を本当にありがとうございます!
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◇保健室にて k-side. 



 感じたのは男のただ凄まじい力で、振り切られ身体が宙に浮いた時にはもう何もわからなくなった。
 壁に叩きつけられる衝撃。
 まるで爆発音のようなそれが火花を伴って頭の中に散る。
 痛いのか驚いただけなのかもわからない。
「――――……」
 何か、遠くで聞こえる。自分の膝が崩れ折れる。
 痛い。
 赤い。
 何故?
「――――なちゃん、……カナちゃん!」
 こめかみに触れようとすると、液状のぬめりが指先に触れた。
 赤い。あかい。
 誰かが自分の肩を揺する。
 ぱたた、と肩に、膝に、コンクリートの埃っぽい地面に、赤い雫が垂れ落ちる。その鮮やかさに、意識が急浮上した。
「カナちゃん!」
「先生呼んで!」
「救急車――」
「国連軍だ!」
「カナちゃん!」
 呼ばれる。血の赤さに眩暈がする。
 痛い。
 赤い。
 大騒ぎだ。国連軍て。
 俄か阿鼻叫喚の沙汰の中で、えらいことになっちゃったな、とかなめは思った。


・・・・・・・・

「まあ、これからはあんまり無茶しないようにね」
 消毒液や絆創膏の類をてきぱきと棚にしまいながら、保健室の主である養護教諭の西野こずえは、やんわりと甘い声で言った。 
 濃い消毒液の匂い。
 やたらと明るい蛍光灯、冷たそうに光る床、体重計が壁際の隅に寄せてある。こまごまと物の多いものの片付いた棚。
「気持ちは分かるけど、千鳥さんは女の子なんだし。男の子に心配かけちゃ駄目よ」
「……はぁい」
 こずえの頬はやわらかい笑みに形作られている。絶対からかわれているのだろうが、ほぼ事実なのでかなめはなにも言い返せなかった。
 こめかみに大判の絆創膏、さらに氷嚢を当て、頬を赤らめるソフト部のユニフォーム姿の女の子であるかなめの傍らで、男の子――男子の詰襟の制服をかっちり着こんだ相良宗介は、むっつりと微動だにもしなかった。
 何も、喋ろうともせず。
 丸椅子に座ったまま、氷嚢を額にあてたまま、かなめは顔を俯かせる。
 こずえはかなめの正面の事務机前に座り、何やら書類をしたためながら、
「今、気分は?」
「別に、大丈夫です」
「目がかすんだりしない?」
「しません」
「頭痛、吐き気、眩暈、眠気、ボーっとするとか」
「いえ、何も。大丈夫です」
「傷口は」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない。まだ痛いでしょ」
「……少し」
 しぶしぶとかなめが認めると、養護教諭はかなめの顔を覗き込んで、両の下瞼を引っ張ったりペンライトのようなものを当てたりしてから、眼鏡越しの大きな瞳を細め、ふうむ、と小さな顎に指先をあてるポーズを取った。
 事の発端はつい先刻のことだ。
 授業が終り、生徒が部活か帰宅に勤しむ時間帯、かなめは校舎とグラウンドの間の通路で、男子生徒と接触して頭に流血を伴う怪我を負った。
 センセーショナルな流血沙汰、さらにその直前に女子の悲鳴が聞こえていたり、目撃者が多かったことからその場はちょっとした大騒ぎになり、かなめ自身は何か釈明するまもなく駆けつけた男性教師に抱えられて、保健室に押し込められた。
 心配と興奮にわいわい騒ぐ野次馬が、いいからお前らは部活に戻れ、と保健室のドアの前で教師らに追い散らされたのだが、それと入れ替わるように――そう、宗介は遅れてやってきて(なにやら廊下で教師たちと一悶着あったようだが)丸椅子に座って治療を受けるかなめの横顔を見るなり、彼は絶句し、――
 ……そうして、現在に至る。
 こずえは問題児・相良宗介がここにやってきたことに少し驚いたようだが、特に追い返そうともしない。
 ちらと地蔵のように突っ立っている宗介の姿見上げてから、
「まあ、大丈夫でしょ。頭打ったって言っても、傷口も浅かったしね」
 そうして俯いたままのかなめのしなびた前髪をちょんと撫でた。
「血がいっぱい出てびっくりしただろうけど、頭って細かい血管がたくさん走ってるから、体に怪我するより出血量が多いものなのよ」
「…………」
「でも、もう血も止まってるし、心配ないわ」
「……」
 と生徒に人気の養護教諭らしからぬ甘い声で、西野こずえは請け負った。
 かなめが前髪の隙間からこずえの顔を見ると、こずえはまたにこりと笑った。
「……えと、すみません…」
「どういたしまして。相良君も、分かった?」
「……はい」
 かなめの頭の上で、彼が酷く小さな声を出す。
 かなめは氷嚢をきゅっと握った。
 遅れてやってきた宗介は、怪我をしたかなめを囲んでおろおろワイワイやっていた野次馬たちと違って、ずっとほぼ無言で突っ立っているだけだった。
 大丈夫か、の一言もない。
 なんともいえず、しゅん、とするかなめの頭を、こずえはまた撫でながら、
「大丈夫よ。その絆創膏すごいの。私もこの間使ったけど、ほとんど痕残らないのよ」
「……あの、先生」
「なあに?」
「あの、男子は?」
「ああ、大丈夫よ。今先生たちが話聞いてる最中だから」
「……、そうですか……」
 かなめは口の中でつぶやいた。こずえは書類を書き終え、事務椅子から立ち上がった。
「じゃあ、千鳥さんは落ち着くまでベッドで寝てなさい。ソフト部には私が行って、荷物持ってきてあげる。タクシーも呼んであげるから、それでもう帰っちゃいなさい」
「え、でも」
「じゃ、今から行って来るわね。相良君どうする?」
「……千鳥についています」
 宗介はようやくまともに口を開いて、言った。
「じゃあ、留守番お願い」
「了解しました」
 こずえはすぐ目の前の仕切りのカーテンをさっと引いた。現れ出でる白いベッドをさっさと整え、
「千鳥さん。ここで寝てなさい」
「え、でも、いいです」
 別に頭痛も吐き気もないのに横になる気になれなくて、かなめは躊躇する。
「駄目よ。頭打ったらしばらく安静。大丈夫だろうけど、頭は下手に動くと怖いのよ」
 さすがの養護教諭の押しの強さでぴしりと言って、かなめを招き寄せた。
 しぶしぶとかなめは立ち上がり、ベッドまで歩く。
 かなめがベッドに腰掛け、スリッパを脱ぎ、もそもそと布団に入るのを見届けてから、こずえは直立不動の宗介に言う。
「他にも職員室に報告しに行きたいし、多分、20分か30分で帰ってくるわね」
「はい」
「何かあったら、そこの電話で呼んで。短縮はこれ」
「了解しました」
 やはり何食わぬ無表情で、宗介はこずえに敬礼する。
「じゃあ、お願いね」
 こずえは机の書類を掴んで、室内をぐるりと点検してから引き戸に向かい、
「……ああ、相良君」
 と振り返り、またにっこり笑って付け足した。
「千鳥さん怪我人だから。くれぐれも絶対安静よ?」


 たん、と小さな音をさせて引き戸が閉まり、かなめと宗介は保健室に取り残された。
 正確にはかなめの役目はベッドに安静、宗介の役目は留守番、である。
「………」
 ソフト部のユニフォーム姿のままでベッドに入ったかなめは、何ともなしにため息をついた。
 清潔な白い布団はさらりと軽く、無臭だった。
 正直、ベッドで休むほど大袈裟な怪我じゃない。運が良かったのか悪かったのか、こめかみを打ちつけた以外は肩を少し打ったくらいで、ほぼ無傷だった。頭は怖い、も大方脅しだろう。指先を包丁で切った方がよっぽど痛い、ただのかすり傷だった。だから救急車も国連軍も必要なく、こずえも素人の生徒(先生から見て)の宗介に留守番を任せたのだろう。
 だからかなめはベッドで横になっているのが、恥ずかしい、気がしている。それに。
 仕切りのカーテンが開け放された先で、宗介はもう敬礼はといていたが、やはり何も言わずに突っ立っていた。
 こずえ先生も野次馬も消えた今、ふたりっきりで取り残されているのが気づまりで、かなめは何となく、ぼやいてみる。 
「……あーあ、バカやっちゃったなあ……」
「…………」
「ユニフォームも汚しちゃったし。落ちるかなあ…」
「…………」
 一滴、二滴血で汚れた肩や膝の辺りを摘んでみるものの、それ以上続かない。
 かなめはため息すら吐けず、額の氷嚢を外して枕の横に置いた。
 彼の沈黙はどういう意味を持つのか、意味などないのか、かなめにとってはとにかく気まずい沈黙だった。
 怒ってるのかな。やっぱり。
 宗介はもともと無口な奴だけど、たとえば野次馬や他の友人たちのように「大丈夫か」の一言があってもよさそうなものなのに、そう言えばこの保健室に来て、一度も話しかけられた記憶がない。何かしらの相槌は打っていたようだが、すべてこずえの言葉に対して、だったのだ。
 カーテンで仕切られていたベッドが並ぶ保健室の一角は、蛍光灯が灯されていない分、ベッド一台分カーテンが開け放された今も、少し薄暗かった。
 薄暗い壁に、長方形の鏡が掛けてあった。角度的に近寄らなければ全貌が見えないが、首を伸ばすかなめのこめかみの絆創膏が、前髪の隙間から覗くのがまず鏡の端に映り、次にえらく景気悪そうな表情をした、見慣れた自分の顔が見えた。
「……うわ…」
 不細工、と思った。
 自分以外の他人にもそう見えたことだろう、とかなめはげんなりとして、また布団の中で項垂れる。
 絆創膏がはがれても、しばらくは傷跡が残るだろう。もしかしたら、ずっと消えないかもしれない。こずえ先生は浅い傷だから大丈夫と言ったけど、ただの慰めかもしれない。
 顔に、――目立つ所に傷が残るのは、嫌だ。たとえばそれは、借り物のユニフォームや、自前の制服にシミをつけらかしてしまう程度にはショックだった。シミ抜きしても、薄くでも残ってしまったらめちゃくちゃ落ち込むだろう。そして顔にできた傷は、絶対に買い替えの利かない自分の顔だから、しかも顔だから、目立つからショックなのだ。うっかり制服にカレーパンの具をこぼしたり、顔のニキビを潰してあとが残るくらいには恥なのだ。
 あたしの美貌に傷が!みたいな自意識過剰な煩悶とはまた違う。と思うけど、
「…………」
 ベッドに女子が寝ていると言うのにカーテンを閉めようとする配慮がないのは、元からなのか、何なのか。
 そんな彼の横顔をちらと見て、こいつには絶対わからない自意識なんだろうと、かなめは思う。
 宗介の顎には大きな切り傷の痕がある。制服の中の体にも、そこかしこに。
 痛ましい、指摘するにも躊躇われるその数に、なのに何も気にしていないふうに振舞う彼だからこそ、かなめは思う。
 こいつは女が顔に傷をこさえようが、傷が消えようが残ろうが、何とも思わないのだろう。思っていいとこ、『機能に別状はない。故に問題ない』ってところだろう、と。
 女の顔の傷痕を陰で指さして笑うような奴らに比べたら、100倍はマシなんだろうけど。
 こんなことで悩むのは、バカバカしいのかも知れないけど。
 かなめは妙に、変に、落ち込んでしまうのだった。
「……ソースケ、何突っ立ってんの」
「…………」
「別に、帰ってもいいわよ」
 水を向けるが、宗介は動く気配もなく、
「……留守を任された」
 絶対安静命令はあんたに下されたんじゃないのよ、と教えてやりたいほどの直立不動っぷりで、彼はかなめの言葉を突き放す。
 これしきの怪我で動揺するな。そう言われているようで、かなめはうっすらと落胆した。
 心配してほしいわけじゃないけど。実際、大した怪我じゃなかったけど。
 日常の中で血を見ることなんてほとんどない自分と、今も戦場で、血の中で戦う彼との意識の差が、そのままふたりの距離をあらわしているようで。
 味気なくて、居心地悪くて、
「別に留守番くらいあたし一人で平気よ」
 宗介は下を向いて、
「……いや、…それより、君は休んだ方がいい」
「別に平気よ。かすり傷なんだし」
 居心地悪くて、心細くて、そんな気持ちをごまかしたくて、そんな風にかなめは言った。
 枕の上に肘をつき、身体をひねって、彼の顔を見た。
 ふたりの目が合った。
「……なんで」
「千鳥」
 ふたりが違う言葉を呟いた。
 宗介が、先に目をそらした。
「君は……いや、……」
 声が硬い。
 保健室に入ってきて、ずっとそうだったと思ったけど、けれど、何か違和感があった。
 彼は、さっき合った目は、何かを堪え、強張っていたように見えた。
 ずっと無表情に見えた彼の胸中は、何かを押し隠していたのではないか。 
「え、何?」
「いい、何も喋るな。君の心痛は想像するに余りある」
「……は?」
 宗介は何故かそんなことを言い出した。
 読みきれず、かなめは眉を寄せた。
「何言ってんの?」
「気丈に振舞わなくてもいい。君の受けた屈辱を思うと、俺は……」
 全身を強張らせ、唸るような声で言った後、宗介はひとりで感極まって絶句した。
「…………」
「…………」
 何やらよくわからない展開になった。
 確かにかなめは落ち込んでいるが、何かずれている気がした。
 宗介は、かなめが屈辱的な思いをした、と思っている、らしい。しかも、かなめが気丈に振舞うのを見ていられないほどの。
 屈辱って何よ、この怪我のこと?かなめはさらに眉を寄せ、記憶を手繰る。
 そういえば彼は遅れてやってきた。もしかしたら、事故現場を目撃していないのではないか?――もしかして、何かまたひどい誤解をしているのではないか? 
「……あ、あのさ、ソースケ?」
「……」
「あんた、なんて聞いてきたの?」
「それは、君が…いや、……」
「いいから言いなさいよ」
「……君が、暴漢に襲われた、と」
「………、あー…」
 かなめは宗介の思考パターンをその情報と照らし合わせ、おおよその事情を悟って瞑目した。
 あの時、あの場所で起こったのは、何かと目立つ女子生徒の千鳥かなめが、何処ぞの男子生徒に殴られて怪我をした、流血付きのセンセーショナルな事実一点のみである。傷害罪で現行犯逮捕の男子生徒は即生徒指導室送りだし、被害者のかなめは即保健室入りだし、教職者はこの手の事件に生徒を関わらせたがらないものだし(こずえ先生も言葉少なだった)、この短時間で事実一点から憶測だけが独り歩きしたなら、そういう結論に陥ることも、あり得るかもしれない。事実の大筋から枝葉末節を取り払えば、真実であるとも言える。
 野次馬はすべてを知っているわけではない。かなめ自身だって、自分に降りかかってきたこと以外は、聞かなければ分からないままだ。
 ましてや、この男のことである。
 普段から鈍感で何考えているか分からない癖に、何故かえげつなくも漆黒の想像力を持つ宗介が、この短時間で集めたヒントから何を何処まで想像したのかなんて、かなめには想像にも及ばなかった。
 全く持って迷惑極まりない。
「…あのね、ソースケ。何でもないから」
「千鳥。何も言うな」
「いいから聞きなさい。ホントに何でもないんだったら。誤解よ」
「しかし」
「こっち来て」 
 かなめは宗介をキッと睨みつけ、ベッド脇のパイプ椅子をびしりと指差した。
 条件反射か宗介は俄かに怯み、言うなりにいそいそとかなめの前に立った。再度促され、パイプ椅子にちんまりと座る。窓辺の薄いカーテンから逆行が透ける。
 かなめは上半身を起こして憤然と腕組みをし、
「ていうか、あんたって、何してたの」
 そもそもの遅れてきた理由をかなめが聞くと、宗介は今までとはまた違う形に口元を歪ませた。
「……生徒会室で、佐々木と話をしていた」
「何の」
「……田宮のASのプラモデルについてだ」
「…………あー……」
 ようは、かなめが暴漢に襲われて怪我を負ったその時に、自分は下らない話に興じていたのだと。その自責のために、様子がおかしいのかもしれない。
 かなめは何となく悟って、唸った。
「…んーとね…、えっと、あたしはチカンやった男子追っかけてって、返り打ちにあっただけなの」
「……どういうことだ?」
 まったく持ってピンと来てない顔で宗介は問い、かなめははん、と鼻を鳴らした。
「そのまんまよ。クラブハウスにね、誰もいなくなってから、部外者の男子がこっそり忍び込んでたみたいなの。で、女子部員が戻ってきて、見つかって、そいつが窓から逃げ出してきたから、あたしが追っかけたんだけど、捕まえる時にそいつが抵抗して、殴られたっつーか、振り払われて、その勢いで壁にぶつかっちゃったのよ」
「…………」
「それで頭打って、血が出て、保健室に運ばれたの。それだけのことよ」
 ――つまりは、そういうことだった。
 もうすぐ練習試合があるからソフト部の練習に付き合ってくれ、と恭子に頼まれ、かなめは放課後、部活に顔を出した。
 借り物のユニフォームに着替え、久々のメンバーとグラウンドでアップなどしていると、「いやあ、痴漢ー!」と耳をつんざくような女子の悲鳴が部室棟から聞こえ、その部室棟から細身の詰襟姿の男子生徒がこけつまろびつ校舎側へ逃げ出していく様が見えた、と同時にかなめは走り出し、その男子生徒を追いかけ、あっという間に追いつきその襟足をつかんだ。
 だが痴漢(どんな痴漢行為を働いたのか、未遂かどうかもわからないが)は抵抗し、振り回した腕がかなめに当たり、勢い脇のコンクリートの壁に頭から打ち付けられた。
 直後、痴漢は駆け付けた野球部員に取り押さえられたが、かなめのこめかみからは真っ赤な鮮血がだらだら流れ出て、その場はあっという間に保健室だ、救急車だ、国連軍だ、と大騒ぎの事態になってしまったのだった。
 そしてあれよあれよのうちに、かなめはやはり駆けつけてきた男性教師で野球部の顧問に抱きかかえられて保健室に運ばれ、校内に残っていた生徒たちまでもが騒ぎを聞きつけ保健室前に市をなし、さらに駆け付ける教師らと養護教諭の「頭打ってるんだから絶対安静!」の号令の元、それらが散らされた後に、ようやく宗介がやってきたのだった。
 保健室から追い払われた野次馬たちは、今は男子を尋問中であろう生徒指導室の前に市をなしては追い払われているのだろう。
「…………つまり、君は暴行を受けていないと」
「まあ、そうよ」
 あまりにも仰々しく発音される暴行の2文字を否定したくて、かなめは穏当に受け答えるのだが、
「誰もいないクラブハウスの一室に監禁され、抵抗する度殴られ、なすがままに想像を絶するような屈辱を受け入れざるを得なかったなどと言うことは――」
「ちょっ、なにそれ?!噂じゃそんなことになってんの?!」
 やっぱり目をむいて絶叫する羽目になった。
 かなめの剣幕に宗介は少しうろたえた風に、
「いや、…俺はてっきり、そうだとばかり思っていたのだが」
「………」
「暴行され人間不信に陥った君が、テロリストの頭目となった挙句に自爆テロの末路をたどるのではないかと、俺は懸念して」
「やめなさい…」
 制止の声も弱々しく、かなめは頭痛を堪えるように布団ごと膝を抱え込んだ。
 なんとなく、頭打ったとはいえかすり傷程度の怪我人に、こずえ先生がタクシーを呼ぶと言ってくれるほど過保護になっていた理由が、わかった気がした。
 事実はどうあれ、保健室の外は憶測飛び交う大騒ぎなのだ。普段宗介の問題児振りが突出しすぎて意識がインフレがちになるが、校内で痴漢と流血沙汰が組み合わされば、それは立派な事件である。宗介の妄想ほどでないにしても。
 多分、生徒会長の林水が上手く便宜を図ってくれるとは思うけど(何かしらの厭味も言われるだろうけど)。
 あたしは、守られているのだ、とかなめは思う。自分が思っている以上に、自分は危なっかしくて軽率で、力のない存在だから。
「……ああ、もう、やんなっちゃう…」
「とにかく、違うのか」
「そうよ。ココに掠り傷作っただけ。カンキンもボーコーもなし」
 暴力の何処までが宗介の言う『暴行』に当てはまるのかは、かなめ及び一般基準ではなく宗介基準に照らし合わせるしかない。
 なんちゅう会話よ、とかなめは思わずひとりごちるが、宗介はそれを聞いているのかいないのか、かなめの顔を見、貼り付けられた絆創膏を見、いつもよりほつれた、白いシーツに僅かに散る長い黒髪の先端を見、ユニフォームの袖から出る無傷の細腕を見、幾度となくかなめの上で視線をさまよわせる。
 かなめは視線をそらし、その先にさっきの鏡があって、また布団の辺りに視線を落とした。
 やがて、
「……つまり、君は暴漢に襲われたわけではないと」
「そうよ」
「その傷を負っただけだと」
「そう」
 慎重に事実を確認し、宗介は視線を布団の上辺りに落とし、は、と短く吐息した。
 短いのに、全身全霊で気が抜けたのを態であらわすような、そんな吐息だった。
「…………」
「…………」
 あんな激しい誤解をして、真相はこの程度の怪我では、気が抜けても当然だろう。なのに彼の反応にふと浮かぶ何か釈然としないものを、かなめは押し隠すように布団の端を握る。
「………………そんなことか」
 そうして、彼の呟きを聞いた。
 それくらいのことで大騒ぎしていたのかと、気が抜けて、珍しく心中を洩らしてしまったかのような、小さな、空気の震えのような。
 そう。
「……そうよ」
 かなめの喉から、相槌が息を漏らすように、けれどそれ以上言葉にできずに、言葉にならない何かが胸を締め付けた。
 確かにこの怪我は大したことじゃない。こずえ先生もそう言った。時がたてば自然に消えるだろう軽い怪我だ。
 たとえあとが残ったって、気に病む必要なんてないのだ。命にも生活にも支障を来たさないのだから。
 だから、それだけのことよ、とついさっき、かなめ自身も言った。
 だからかなめはそのまま布団のシワを見つめ続けていた。
 傷が痛むのではなくて、けれどそのせいのような気もして、よくわからなかった。
 怪我をしたことを、「そんなこと」と呟く彼。
 他の子のお見舞いでそんなこと言ったら、デリカシーがない!と怒鳴りつけていたかもしれない。
 彼がデリカシーを欠いたとして、それならどう配慮してほしかったのか。それすらよくわからなかった。
 何も言えず、聞けず、押し黙った。
 別に野次馬が大騒ぎするみたいに宗介に騒いで欲しいわけじゃなかったけれど、かなめは僅かに落胆した。
 その重たいような感情が思考を後ろ向きに傾かせる。
 こうして安静命令の元で、いい加減頭の冷えた状態になってみると、自分のしたことは明らかに無謀でしかないように思える。
 痴漢、正確にいえば不法侵入を犯したその男子生徒は細身の細面で、何処にでもいそうな普通の男子だった。名前は知らないが、しかし顔には見覚えがあったようにかなめは思う。確か2年生だった。
 つまり面が割れていた。身元もはっきりしていた。現行犯逮捕でなくても、奴はいずれ生徒指導室行きだった。
 かなめが捕まえようとしなくても、こんな怪我などしなくても、大騒ぎしなくてもよかったのだ。
 チカン、と悲鳴が聞こえたから、正義感というよりは条件反射で無心で追いかけて行った。逃げる男子の背も肩も、いつもそばにいる彼より小さかったから、楽勝で捕まえられる、と思った。けれど男の力は女のかなめを簡単に上回り、結局かなめは馬鹿みたいに大袈裟な怪我をしただけだった。
 痴漢は他の男子や先生が捕まえて、あたしは周りが大騒ぎする種を作っただけだった。道路に飛び出して車にはねられるのと同レベルだ。
 宗介が呆れるのも無理はない、と思った。
 かなめはまた居心地の悪い気分になり、そしていつまでも宗介の前で怪我人ぶってるのが恥ずかしくなって、ベッドから降りようとした。
 もうこずえの帰りを待つことなく保健室を出て、ソフト部に顔出して謝って、着替えて帰ってしまおうと思った。
 宗介が腰を浮かせた。
「まだ寝ていろ」
「……大丈夫よ……」
「寝ていろ」
 低く、強く、宗介は言った。宗介の腕が伸びて、かなめの起こしかけた肩を押し返した。
 どさっ、とかなめの全身に力が走る。
 先刻力が抜けた筈の腕が、手のひらが、かなめの両肩を掴んでベッドに押し付けた。
 きしり、とかなめの耳元で音がした。強い力だった。前髪の隙間からかなめを見下ろす彼は、脱力するでも強張るでもない黒い瞳で、
「……っ……」
「寝ていろ」
「……痛いよ」
「すまん」
 宗介は手を離して、パイプ椅子に座りなおした。かしゃん、と乱暴な音がした。
「…………」
「…………」
 不器用な沈黙が保健室の中で充満した。
 人気のない部屋の静寂。
 緩く効いた空調。慣れない薬の匂い。
 閉じた窓とカーテン。微動だにしない日陰の薄暗さ。
 硬質の薬品棚や医療器具の数々が、身動きせず、ものも言わずふたりを取り囲んでいる。
「…………」
「…………」
 カーテンの向こうから何か聞こえた。外のグラウンドで部活に勤しんでいる生徒たちの歓声だった。遠く、小さく、外の広さに紛れてすぐに消えた。
 養護教諭はまだ帰って来ない。
 めくれかかった布団にくるまり、かなめは宗介に背を向けたかったが、こめかみの傷がひっつれて、出来なかった。
 ふたりきりを意識してしまった。
 落ち着かない気分になる。心臓がどきどきしている。絶対安静だと言った養護教諭の注意を今更思い出して、眩暈がしたような気が、した。
「千鳥」
 宗介が、声をかけてきた。
「なに」
「……すまなかった」
 宗介はかなめの顔を見つめ、けれどすぐに自分の膝の上に置いた両の拳に視線を逸らした。かなめは宗介の顔をまた見上げた。合わせない視線をそのままに、宗介は苦しげに言葉をしぼり出す。
「こんなことはもう二度とないようにする。君を危険に晒すような真似はもうしない」
「……こんなこと……?」
 すぐに意味がわからず、かなめは聞き返す。
「君の護衛である俺が離れた隙を狙って、敵が君に接触するだろう事は予想できた」
「……別に、敵とか関係なかったでしょ」
「今回は無関係のようだが、やはり油断はできん」
 苦しげに、重々しく、宗介は自戒する。
 そんなのあんたのせいじゃないでしょ、とかなめは思った。そうじゃない。罪を宗介になすり付けて、謝って貰ったって、胸を締め付ける違和感は消えない。
「すまなかった」
「…………」
「…………千鳥?」
 宗介は今更のようにかなめの気色に気づき、
「傷が、痛むのか」
「……」
「気分が悪いのか」
「……全然。大丈夫よ」
「しかし」 
「それだけのことだもの」
 上目に天井を睨んで、かなめが言った。
 ようやく宗介は自分の失言に気づき、
「いや、…それは、そういうつもりでは」
「本心でしょ?」
「……肯定だ、が、うまく言えないが、……その、気に障ったのなら、すまなかった」
 その謝罪は、本心のようにも言い訳のようにも聞こえた。
 どうせまだそんなことくらいでって、大袈裟だって、思ってるんでしょ。
 仕返しがてらそう言って、困らせることもできた。
 けれどかなめは宗介の顔を見上げ、振り落ちてくるような彼の視線を受け止めた。
 ふいに肩の熱が記憶からよみがえり、思わず布団の中で、肩を両腕でかき抱いて身を竦ませた。
 視線をはずし、ただ布団のしわの陰影などを見つめ、
「ソースケ、…心配したの」
「肯定だ」
 かなめは気づいてしまったのだった。
 ずっと、怖かったのだ。
 自分にはなすすべのない暴力をふるわれて、怖くて、悔しくて、そして心細かったのだ。
 傷の痛みも、血の色も、男の暴力も、すべて怖かった。
 宗介がかなめの元にいなかったからだ。
 そして、宗介の元にかなめがいなかったからだ。
 それだけのことか。
 その呟きは失望でも落胆でもない。
 悪意でも暴力でもない肩の熱は、重みは、痛みは、それを全部理解させた。
 だから、こんなに胸が苦しいのだ。
「……あのさ、ソースケ」
「なんだ」
「…………えっと」
 言いたいことは、たくさんあった。けれど、言葉にできなかった。
 あの時、あの場所でのことは、もう終わってしまったことだった。今この場所で宗介の口から聞きたい言葉は、謝罪ではなかった。そしてかなめが言うべき言葉も、それではなかった。
「……この傷のあと、残るかもね」
 だから、かなめはそう言った。
 宗介のデリカシーから遠いこと。
 馬鹿なことやって、心配をかけた。宗介が気にしたら、嫌だと思う。
 それが本当の気持ちだったから、言った。決してフェアなことじゃないけれど。
 けれど、彼に言ってほしい言葉があるのだ。
 宗介が言ってくれれば、それだけでいいのだ。
 今までずっと、心細かったのは、きっと――…
「……残るのは、嫌か」
「別に」
 かなめは宗介の目を、上目に見る。
 視線がかち合い、宗介はその心情に気付いているのかいないのか、膝の上の拳を開こうとして、やめて、
「君が無事なら、構わない」
 とだけ、言った。 


end.



コメント:「glass mosaic」さまのにれの木立さまからいただきましたー!
     ぐるぐるな女子千鳥と実は煮え煮えな軍曹さんがたいへんたまらんです…ぬおおお…独り占めバチかぶる&じまーん(すみませんすみませんすみません)!!精神でご許可をいただきアップさせていただきました!
      自分が西野先生の立場なら、ニヤニヤが止まらないと思われます(落ち着け)
      続編として「保健室にて s-side.」もいただいております。お話の順に並べさせていただきましたので、全体表示だとこちらの下に表示されます。
     にれの木立さま、素敵な作品を本当にありがとうございます!

◇保健室にて s-side.


 護衛対象である千鳥かなめは、放課後ソフト部の練習に出るという。
 その護衛である相良宗介は、当然ついて行くといったが、言下に却下された。
 どうしたものかと思案しながら、取り敢えず生徒会室に出向くと、そこで備品係の佐々木が何やら珍しげなものを長机に並べている。M6A3の1/50スケールプラモデルだという。ついつい引き寄せられ、ついつい自慢話を聞くことになった。
 生徒会室の窓からはグラウンドがよく見えたし、ソフト部の様子も遠いながら観察できた。かなめが他の部員とストレッチをしている姿を確認し、さりげなく窓際の椅子を陣取って、宗介は佐々木の言う細部の拘りだの関節が動くだのM6A3が幅を利かせる戦場の薀蓄だのを感嘆を洩らしながら時に自分の知識を披露しながら聞いていた。
 浮ついた気分がふと緊張したのは、窓の外から女子のものらしい悲鳴が聞こえてきたときである。
 他の部活動の号令や掛け声にまぎれ、何と言ったのかは不明だが、確かに女子の、甲高い悲鳴が風に乗って宗介の耳に入った。俄かにざわっ、とグラウンドが湧いた。
 何事か、と他の生徒会のメンバーも窓際にやってくる。
 宗介は窓を開けてかなめの姿を探したが、見当たらなかった。ソフト部の輪の中にいたはずなのに。
 何が起きたのか分からず、ただグラウンドの生徒らの視線が、校舎側の通路に向いているのが分かった。
 次の瞬間、怒号のようなざわめきがグラウンドに満ちた。宗介が窓から身を乗り出して、視線の先を見やるが、死角の先にそれがあるらしく見えない。しかし悲鳴とも泣き声ともつかない女子の声が聞こえてくる。

 ――…なちゃ……、
 ――カナちゃん!

 宗介は即座にきびすを返し、もう長机の上には見向きもせずに生徒会室を飛び出した。


「相良君!」
 取り敢えず昇降口に出なければ、と階段を3段飛ばしで降りているところで、下から女子の声が飛んできた。
 宗介を探していたらしい、踊り場で足を止めて切れる息を整える女子生徒の元へ、宗介は駆け寄る。
「何してたの!千鳥さんが――」
「千鳥は?!」
 怒鳴りつけんばかりに問う宗介に、負けずに興奮した様子で彼女は答えた。
「千鳥さんが痴漢に襲われたって!!」
 宗介の立つ踊り場がぐらりと揺れた。
「……っ、何処に」
「保健室!早く行って!」
 促すのも最後まで聞かず、宗介はまた階段を駆け下りた。
 放課後にしては数の多い生徒たちが、廊下を疾走する宗介を見るなり道を開ける。
 廊下を突っ切り、角を曲がったところに保健室はある。
 その前に三人ばかりの教師がたむろして、何事かを話し合っていた。
 走り来る宗介の姿を見咎め、彼らはぎょっと目を向いた。
「相良――」
「千鳥の状況は!?」
 切れる息を押し殺し、肩をいからせ、鬼気迫る形相で、さらに右手には拳銃まで握った問題児は、そこに到着するなり応答を待たずして保健室の戸口を開けようとするので、
「待て、相良」
「落ち着いて、大丈夫だから」
 教師らは問題児を戸口から押しやり、教師同士で何やら目配せをした。苦々しく、何処かしら厄介そうに。
 それには気付かず宗介がまた口を開こうとするのを遮って、その中にいた彼の担任の神楽坂恵理が、
「相良君、落ち着きなさい」
「先生、彼女は――」
「落ち着きなさい!こういうものは没収!」
 素人の無頓着さで彼の拳銃(本物)を奪い取り、傍らの男性教師に預ける。腰に手をあてて腐っても教師の貫録で睨みつけると、宗介は歯噛みしそうになりながらも腕を下ろした。
「…千鳥は、この中ですか」
「そうだけど、あのね、相良君。千鳥さんは頭打ってるの。だから面会は待って」
「……、では、暴漢はどこですか」
「それは、…あのね、違うのよ。ただ千鳥さんは転んで怪我しただけで…」
「痴漢に襲われたと聞きました」
「……違うのよ。…ちょっとぶつかっちゃっただけよ。心配しないの」
「そのぶつかった男はどこです」
「…えっと、それは大丈夫よ。こっちで話聞いてるから」
 現在、教師側でも情報が不足していた。とある男子生徒と生徒会副会長の千鳥かなめが校内で接触し、かなめの方が怪我を負ったこと、目撃した生徒たちが言うには男子が痴漢で、かなめはそれに殴られたらしいことくらいしか分からない。
 とりあえずは怪我人とその加害者である男子、さらに最初に男子を痴漢呼ばわりした女子テニス部員を重要参考人としそれぞれ別個に隔離し、これから尋問しようという段階なのだった。
 歯切れ悪い説明に納得できず、宗介は咬みつかんばかりに担任を睨みつける。まるで飼い主の仇を討たんとする狂犬のような。
 転校初日から千鳥かなめにつきまとい、様々な問題を起こし、なんだかんだとケンカばかりしながらも仲良くかなめにくっついて回る問題児の、下手にかなめを殴った(と言われている)男子の居場所を教えたら咬み殺しに行きかねない剣幕に、教師らは苦虫の5、6匹は噛み潰す気持ちでまた目配せをした。
 問題をこれ以上増やさんでくれよ、と。
「…どうします」
「しょうがないでしょう…」
「しかし…」
 宗介の頭上で教師らはぼそぼそと小声で話しあい、やがて三人そろって盛大なため息をついた。
 代表として恵理が宗介の肩に手を置いた。
「……相良君」
「はい」
「千鳥さん、この中にいるけど、そっとしてあげるのよ」
「はい」
「頭打ってるから。騒いじゃ駄目よ」
「了解しました」
 宗介は血走る目で敬礼した。
 教師らは問題児が痴漢を探して大騒ぎするくらいなら、保健室に入れておいた方がマシと判断したのだった。ほわんと物腰は柔らかいが生徒の扱いに長けた養護教諭と、問題児の保護者のかなめのそばに置いた方が、制御しやすいだろうと。
 ちょっと待ってなさいよ、と宗介を制し、恵理がおとないを入れてから、保健室の戸口から顔だけ覗かせた。
「こずえ」
 室内から養護教諭の声が返る。
「なんですか」
「相良君来てるんだけど。入れてもいい?」
「…だって。いい?……いいですよ」
 廊下のやり取りが聞こえていたのか、すんなりと、やわらかい声の許可が出た。
 
 敵の襲撃か、変質者の類の仕業か。
 教師らの話によると、犯人は一応確保してあるらしい。
 単独犯か、仲間はいるのか、犯行の目的は、再犯の可能性は。
 いずれにしろ、彼女の状態をこの目で確認してから対応を練らねばならない。必要あれば警備を強化するか、学校から脱出し身を隠す必要に迫られるかもしれない。
 暴漢に、襲われた。
 そんな彼女は今、逃走に耐えうる状況なのか、どうか。
 組織内で何か事件が起きた時、上層部は下っ端にまで馬鹿正直に情報開示することはない。だから教師らの言う「大丈夫」はハナから宗介は信用していなかった。
 戦場育ちの宗介には考えられないほど平らかで穏和な空気を日常とする陣代高校のそれが、俄かに荒れている。生徒らは興奮して騒ぎ、教師らは緊張し、保健室前に厳戒態勢を敷いている。「生徒が怪我をしただけ」でこうなるとは思えない。故に、その説明の信用性は低い。信じられるのは自分の勘だけだ。
 状況によっては、と宗介は詰襟の中に隠し持った、予備のアサルトナイフ、手榴弾の類を意識しながら戸口を真っ直ぐ睨む。
 彼女の状況によっては、教師らを拷問してでも暴漢の居場所を吐かせ、そいつの身体にこの手で、手持ちの戦力すべてを叩きこんでやらねばならないかもしれない。
 くれぐれも落ち着いてね、と念を押す恵理の声を背に、宗介は保健室の中に足を踏み入れる。
 治療のためか、眩しいほどの光源の下、彼女は横顔を俯かせて丸椅子に座っていた。
 ソフト部のユニフォーム。むき出しのすらりと長い手足を小さく縮こませ、その背中を覆う長い黒髪は、ところどころほつれたままだ。
 ぽつり、ぽつりと、肩に赤い色が滲んでいた。血痕だと宗介は悟る。
 ほつれた前髪に隠れるように、額に肌色の絆創膏を貼りつけている。
 その下に、何があるのか。
 決まっている。
「……千――」
 胸内に起こる理由も言葉にならない激情に、思わず呼びかけると、彼女はちらりと視線を向け、すぐに丸椅子ごと背を向けた。
「…………」
「…………」
 言葉が出ず、宗介は立ち尽くす。
 一瞬交わった視線を反芻する。眉の形を、頬の、口元の緊張を。
 目の前には、ほつれた長い黒髪と、小さな肩。
 いつものあたたかな笑顔を、思い出す。
 暴漢、怪我、面会制限。
 宗介の脳内に、その語彙から連想される最悪の状況が荒れ狂う。
 俺の、いない間に。
 彼女を守ると誓った筈の俺の、
「…………っ、」
 言葉にならない。
 言葉にできない。
 まさか宗介に傷をじろじろ見られたくない乙女心故のシカトだとは思いもよらず、ただ茫然と、宗介はそこに立ち尽くしていた。


 気付いたら宗介とかなめは、保健室にふたりきりになっていた。
 養護教諭は姿を消し、かなめはベッドに横になっていた。
 養護教諭に何事か言伝された筈だったが――そう、戻るまでの留守と、彼女の安静を頼まれたのだった。
 「…あーあ…――」
 覚束ないままの心地で、突っ立ったまま宗介はかなめのか細い声を聞く。
 いつもの明るく、晴れやかな声とは遠く。
 当然だ、と宗介は思う。俺のいない間に、あんな目に遭わされれば。 
 宗介が既に妄想と現実の区別がついていないのにも気づかず、かなめは小声で、何事か呟いている。
「……――」
「…………」
 宗介が黙り込んでいる間にも、かなめはもぞもぞ動いて何事かしているようだった。
 大人しく寝ていればいいのに、災難にあっても気丈に振舞おうとしている、けれど上手くいかない。宗介の目には、そんな風に、見えた。
 痛ましくて、見ていられない。
 かなめはほんの少し声を強め、ベッドの上から、
「……ソースケ、何突っ立ってんの」
「…………」
「別に、帰ってもいいわよ」
 抑揚のない声で、突き放すように、言う。
 突き放されるわけにもいかず、宗介は答える。
「……留守を任された」
「別に、留守番くらいあたし一人で平気よ」
 かなめはさらに言う。
 怒っているのとは違う。熱くも冷たくもないのに、どんよりと湿った声。
 聞いたことのある声だと思ったが、宗介には思い出せなかった。今は過去に思いを馳せている場合ではないと思った。
 今ここで、彼女は傷ついている。それを押し隠そうとするほどに。
 ならば、そっとしておくのがいいのだろう。
 宗介は慎重に言葉を選びながら、
「……いや、…それより、君は休んだ方がいい」
「別に平気よ。かすり傷なんだし」
 かなめは枕の上に肘をついて、こちらのほうを見た。
 ふたりの目が合った。
「……なんで」
「千鳥」
 ふたりが違う言葉を呟いた。
 宗介が、先に目をそらした。見ていられなかった。
 先ほどと変わらない、こめかみの絆創膏。多少は撫で付けたようだがまだ荒れた黒髪、血で汚れた着衣。
 そしてその表情はいつもより薄青い。頬には長い睫毛の影が濃く落ち、眉は曇り、見つめる瞳は揺れるようで。
 堪えているだろう痛み、そして、
「…………、」
 見てはいけない。
 これ以上、俺などがここにいてはいけない。
 彼女は傷ついている。そう確信する。
 なぜ養護教諭は行ってしまったのだろう。用事なら、俺が引き受ければよかった。
「君は……いや、……」
「え、何?」
「いい、何も喋るな。君の心痛は想像するに余りある」
「……は?何言ってんの?」
「気丈に振舞わなくてもいい。君の受けた屈辱を思うと、俺は……」
 かなめの声など聞こえやしない。
 宗介にはそれ以上言えず、ただ両の拳を握り締めた。
「…………」
「…………」
 彼の誠意が伝わったのか、かなめは黙り込んだ。
「……あ、あのさ、ソースケ?」
「……」
「あんた、なんて聞いてきたの?」
 伝わっていなかったらしい。怪訝そうに眉を寄せ、探るように、かなめは問う。
「それは、君が…いや、……」
「いいから言いなさいよ」
「……君が、暴漢に襲われた、と」
「………、あー…」
 問われ、仕方なく言うと、かなめは何故か呆れたように嘆息した。
「…あのね、ソースケ。何でもないから」
「千鳥。何も言うな」
「いいから聞きなさい。ホントに何でもないんだったら。誤解よ」
「……しかし」
「こっち来て」 
 かなめは宗介をキッと睨みつけ、ベッド脇のパイプ椅子をびしりと指差した。
 条件反射で宗介は怯み、主人に絶対服従の飼い犬のように、いそいそとかなめの前に立った。
 再度促され、パイプ椅子にちんまりと座る。
 誤解。
 それは宗介にとって聞き慣れた言葉ではあった。かなめからよく聞かされる言葉でもあった。
 日本語読解能力に乏しい宗介は、よく会話の端々のアヤを絶妙に取り違えて、いつもかなめに叱られるのである。
 かなめは上半身を起こして憤然と腕組みをし、説教の筋立てを考えていた。


「……つまり、君は暴行を受けていないと」
 かなめの説明を聞き、宗介は頭が徐々に冷えてゆくのを感じていた。
 最悪の展開図はかなめの嘆息交じりの説明によって崩壊した。
 かなめが言うには、かなめを狙ったものではない、他の女子を狙った痴漢を取り押さえる際に、抵抗されて傷を負っただけだという。
「まあ、そうよ」
「誰もいないクラブハウスの一室に監禁され、抵抗する度殴られ、なすがままに想像を絶するような屈辱を受け入れざるを得なかったなどと言うことは――」
「ちょっ、なにそれ?!噂じゃそんなことになってんの?!」
「いや、…俺はてっきり、そうだとばかり思っていたのだが」
 目をむいて絶叫するかなめの剣幕に、宗介はまた事態をひとつ確認する。これも誤解だ。
「暴行され人間不信に陥った君が、テロリストの頭目となった挙句に自爆テロの末路をたどるのではないかと、俺は懸念して」
「やめなさい…」
 力なく遮り、かなめは布団ごと膝を抱えて項垂れた。
「……ああ、もう、やんなっちゃう…」
「とにかく、違うのか」
「そうよ。ココに掠り傷作っただけ。カンキンもボーコーもなし」
 宗介はかなめの顔に、絆創膏に、肩に、腕に、髪に、かなめの上に視線をさまよわせる。
 確かに、監禁されたにしては傷痕は殆どこめかみのものだけだし、着衣も血痕以外に破損した様子はないし、何かしらの拘束具を使ったにしても、その白い細腕にそれらしい痕は見当たらない。グラウンドでかなめの姿を確認してからものの十数分しか経っていない短時間で、犯人が手際よく犯行に及んだとしても、それにしては発覚後の手際は粗末なものだった。
 唯一確固たる事実として目前にある怪我は、大判の絆創膏に隠れきるだけのもので、「頭を打った」と散々脅されてはいるが、実際特に意識の混濁や体調不良を引き起こしていない。
 いい加減冷静さを取り戻した頭の中で、宗介は憶測を排除しながらもう一度事実を再構成し、
「……つまり、君は暴漢に襲われたわけではないと」
「そうよ」
「その傷を負っただけだと」
「そう」
 痴漢と、怪我。その二つの単語は直列しない。
 その割に保健室の外は、大騒ぎが過ぎる気がしないでもないのだが、もしかしたら彼等も正確なところを知らないだけなのかもしれない。
 すべて誤解。
 現実に起こったことは、深刻度の低い怪我がひとつきり。
 それだけのことだったのだと、宗介はようやく結論付けた。
 ようやく、宗介は視線を布団の上辺りに落とし、は、と短く吐息した。
「…………」
 全身から緊張が解けていく。何がなんだか分からなくなるほどの安堵に、椅子がなければ崩れ落ちていたかもしれない。
 確かに校内で痴漢騒ぎが起きるのも、安全保障問題担当・生徒会長補佐官として見過ごせない事態ではあったのだが、今の宗介にはそこまで気が回らなかった。
「……それだけのことか」
 思わずそう呟いていた。
 いつもそうだ。かなめの身に何かが起こる度、宗介は冷静でいられなくなる。あらぬ最悪の事態を想定して大立ち回りし、あきれられてしまう。
 あんたっていっつもそう、と眉を吊り上げて小言を言いたいだけ言って、後ろを向いて大股で歩き去っていくのを、宗介がしゅんとなりながらも追いかけてくる様を仕方なさそうに振り返って、しょうがないわね、と笑って、そして――

「……そうよ」

 彼女の呟きに、宗介はハッ、と我に返った。
 かなめの声は変わらずか細かった。
 全て杞憂と知った。けれどかなめの様子は変わっていない。
 痴漢も暴行もないと言う。ただのかすり傷だと言う。事実だ、と宗介は確信する。
 その時、かなめが身じろぎをした。
「――……」
 布団の中から白く長い脚を出し、床に降りようとする。
「まだ寝ていろ」
「大丈夫よ……」
 事実。
 それでもかなめの様子は変わっていなかった。こめかみの絆創膏、肩に滲みた血痕をほつれた前髪でそれらを隠そうとし、顔を俯かせている。そう見える。
 伏せた睫毛。頬に落ちるその影。
 かなめの様子がおかしい。
 ――そう、ずっと、やはりかなめの様子はおかしかった。事実と同時に、宗介は確信した。
 駄目だと思った。
 そう思ったら、その起き上がろうとする両肩――既に乾いて酸化し始めた、血の跡の滲むそれを掴んでいた。
「寝ていろ」
 だから宗介は、かなめにそう言った。
 抵抗の気配を感じたが、かまわず身を貫くほどの衝動のままに、そのままベッドに押し付けた。
 されるがままにその華奢な肢体を縫い止められ、かなめの全身に緊張が走ったのが、薄い骨の線を透かすほど華奢な肩から、掌に伝わってきた。
 宗介はかなめの瞳を見ていた。
 紛れもない驚愕に揺れる目許が、頬が、薄い皮膚越しに血の色を透かして赤らんでいく。
 こめかみの絆創膏。強張る肩。白のシーツにばらりと散った長い黒髪。むき出しの細腕が、ユニフォームに包まれたしなやかな肢体が彼の作る影の中で、うっすらと夕暮れの色を透かす逆光の中で、なすすべもなく膂力のままに沈む。
 駄目だ。――駄目だ。
 かなめをこのまま外に出すことなどできない。
 吐息が触れるほどの距離で思う。
 絶対に駄目だ。
 絶対に離せない。
「……っ……」
「寝ていろ」
 どくん、と心臓が大きく脈打った。
 衝動の意味を――この保健室に立ち入ってからずっと、かなめの様子を、表情をこの目で見てからずっと、言葉にできず抑え込んできた激情の意味を知る。
 傷ついてほしくなかった。見たくなかった。今視界に彼女以外を映せないのに。
 ここに閉じ込めておきたいと思った。
 憔悴するかなめを、他の奴らの眼に触れさせたくなかった。
 こめかみの小さな傷痕ではなく、ずっと自分は彼女のことを思っていた。
 血の跡が掌の中で擦れる。
 そうして気づく。痴漢にしろ暴漢にしろ、見つけ次第手持ちの銃弾をすべて叩き込んでやろうと思っていた自分は、保身のために暴力を振るった彼と何も変わらないのではないか。
 どくん、とまた心臓が跳ねる。
 こうしていつでも彼女を膂力のままに押し倒し、抵抗のすべの一切を奪うことのできる自分は、目の前の無力な少女の傍にいるべき人間ではないのではないか――
「……痛いよ」
 かなめは言った。
 その何かに耐えるような声が目覚めの合図だったかのように、宗介は力を抜いた。
「すまん」
 宗介は手を離して、パイプ椅子に座りなおした。かしゃん、とリノリウムの床が悲鳴を上げた。
 かなめが、がばっと布団を被り直した。
「…………」
「…………」
 未だ速い脈が遠く聞こえる気がする。背中が汗でべったりとぬれている。
 宗介は膝の上で拳を握る。汗が滲む。その甲を、見る。
 羞恥と惨めさが顔を上げることを許さない。
 自分の中に確かにある衝動。
 彼女を守ると言った。その言葉は真実なのか。
 この行動は、その意味を彼女に明かすことはできるのか。
 他の誰かにまた疵付けられる前に、自分の手で壊してしまう、そんな日が来ないと、言い切れるのか、俺は。
「……千鳥」
 呼びかける声が、自分の声ではないようで、
「なに」
 それでもかなめは応えてくれる。
 宗介は覚悟を決めて、謝罪した。
「……すまなかった」
 布団から半分だけ顔を覗かせるかなめは、遠慮がちに宗介を見つめ返してくる。目が合って、耐え切れなくなって宗介はすぐに膝の上に視線を逸らした。かなめが見つめるまま、合わせない視線をそのままに、宗介は謝罪を続ける。
「こんなことはもう二度とないようにする。君を危険に晒すような真似はもうしない」
「……こんなこと……?」
 かなめは聞き返す。
 そう、全ては自分のせいなのだ。
「君の護衛である俺が離れた隙を狙って、敵が君に接触するだろう事は予想できた」
「……別に、敵とか関係なかったでしょ」
「今回は無関係のようだが、やはり油断はできん」
 俺が君を守ると言った。
 敵かどうか否かも、任務か自分の意思なのかも、この現実を前に拘る必要はなかった。敵に対する任務も、敵でないものに対する意思も、宗介にとって同次元の存在意義だった。
 だから、自分はここに来た。
 ここに、いたいのだった。 
「すまなかった」
「…………」
 かなめは何も、言わなかった。
 そっと宗介から中空に視線をはずし、黙り込んだ。 
「…………千鳥?」
「…………」
 返答はなく、宗介は狼狽するしかない。
 何かまずいことを言って怒らせてしまったのか、しかしその表情の険しさは怒りとも違う気がするが、怒気を顕わにするほど元気がないと言えばずっとそうだった。
 そういえば絶対安静だと養護教諭が言っていた気がする。そうだ以前にも、軽く転倒した後も暫く平気で話しをしていた仲間が、1時間ほど経っていきなり容態が急変し危篤に陥ったことがあった。頭部は傷は浅くても打ち所が悪ければ、意識を失ったり、最悪二度と目覚めないこともあり得る。
 今のかなめは顔色は決して本調子のそれとは言えず、いやしかしまさか先刻の安静に程遠い彼是で血圧が上がったり下がったりしたせいで容態が変わってしまったのだろうか…?
 今更宗介は額に汗をかき、 
「傷が、痛むのか」
「……」
「気分が悪いのか」
「……全然。大丈夫よ」
 痛苦を堪えるでもなく、ぼんやりとするでもなく、ただ淡々と、かなめが言う。
「しかし」 
「それだけのことだもの」
 上目に天井を睨んで、かなめが言った。
 それだけのこと。
 そんなことを言った気がするが、と宗介は先刻の彼是以前まで記憶を手繰り寄せ、安堵のあまりの吐露だと思い当たり、
「いや、…それは、そういうつもりでは」
「本心でしょ?」
「……肯定だ、が、うまく言えないが、……」
 宗介にとってそれは本心だったが、「それだけのこと」どころではない心の葛藤を潜り抜けてきた今となっては、今回のことは確かに「それだけのこと」ではなかった。
 そう言う意味で、当事者であるかなめがそれを味気なく思う気持ちも、なんとなくではあったが理解できた。
「…その、気に障ったのなら、すまなかった」
 ようやくかなめは宗介の顔を見上げる。
 宗介はかなめの様子を改めて観察した。
 絆創膏の下の傷は開いていない。額の生え際にうっすらと汗が滲んでいるが、引きつつあるもので、冷や汗の類ではない。多少の疲れの見える目許、口元。
 声は小さくはあったが朦朧としてはいない。言葉の意味も通っている。
 先刻まで頬に影を落としていた長い睫毛を二度ほど瞬かせる。縁取られる瞳に混濁の様子はない。
 容態の急変も、杞憂だったと知る。
 しかし、その瞳の色にまだ消えない揺れが残るのを、宗介は感じ取った。
 かなめはただ、宗介に向かって真っ直ぐに、薄く赤い唇を開く。
「ソースケ、…心配したの」
 当たり前のことを、問いかける。
「肯定だ」
「……あのさ、ソースケ」
「なんだ」
「…………えっと」
 布団の中に口元を隠し、何やら言葉を選ぶ素振りを見せ、
「……この傷のあと、残るかもね」
 宗介にとって思いもよらないことを、呟いた。
 なんと言ってよいか分からず、また愚鈍な口を開くわけにもいかず、
「……残るのは、嫌か」
「別に」
 そう言いながら、かなめは宗介の目を、上目に見た。
 じっと、挑むようなその瞳は、けれどやはり気丈に振舞っているだけのように見えた。
 かなめがなんと言おうと、今までずっとそばで見守ってきた宗介の勘は、そう告げる。
 別に、と突き放しながら、不安げに曇る眼が、そう言っている。
 傷ついている。
 その理由が何なのか、傷痕が残ることなのだとして、そのことに対する彼の答えは、明確だった。
 機能に支障はない。故に、問題ない。
 けれど怒りも焦りもが消え、その目でただかなめを見つめるとき、確かに感じるものがあった。
 先刻の、身を貫くほどの激情はすでにない。
 他人に対する感情ではなく、自分に対するものでもなく、ただ、かなめに対して思うことだった。
 傷痕が残ることに、傷つくのなら、それは嫌だった。
 彼女の頬に触れたいと思う。その傷口に指を這わせ、髪を撫ぜてやりたいと思う。
 問題ないと言って、慰めてやりたいと思う。
 これ以上触れるわけに行かないのに、これ以上愚鈍な口を開いて傷つけてはいけないのに、慰めになる行為なのかすらわからないのに。
 つい先刻の愚かな誤解とは違う懊悩に、宗介の精神は静かに興奮する。心臓が、痛みを伴って締め付けられる。
 汗が滲むままの拳の中の、色を思う。
 自分は、彼女になんと言ってやればいいのか。
 どうすればいいのか。
 自分に問うても答えは出なかった。
 宗介は膝の上の拳を開こうとして、やめて、
「君が無事なら、構わない」
 とだけ、言った。
「…………、」
 かなめは何かを言いかけ、そのまま布団で口元を隠して何かを呟いた。
「……千鳥?」
「……ん。こずえ先生、遅いね」
「そう…だな」
 何を呟いたのかはわからなかった。
 多分、かなめはうなずいたのだと、宗介は思った。


 たとえ君が癒えない傷を負ったとしても、笑っていてほしいと思う。
 それが身勝手な望みだとしても、どうしても。
 慰め方を知らない、傷つけるしかできない自分の手では、触れられない。
 だから、どうか。
 これ以上彼女が傷つくことがないように。

 だから、それ以上言えなかった。


・・・
 後日、教職員の情報操作及び生徒会の懐柔工作が実を結び、事件は「クラブハウス棟に財布を狙った空き巣が入り、それを捕まえようとした生徒会副会長が転んで怪我をした」だけの、痴漢のチの字もない噂にとどまった。
 事件を引き起こした男子生徒がひっそりと停学処分を受けてる間に、噂も、かなめのきずあとも薄れていった。
 しかし事件を無駄に重く見た安全保障問題担当・生徒会長補佐官は、学校の警備を今まで以上に強化して、案の定副会長にハリセンで殴打されまくる暴力事件となったが、それは校内で見慣れた日常的風景として、噂に上るべくもなかった。

end.



コメント:「glass mosaic」さまのにれの木立さまからいただきましたー!
     先だっていただきました「保健室にて k-side.」の軍曹さん視点のお話が読みたいです先生!!と叫んだら、すごく素敵な作品で夢を叶えていただきました。感無量であります…(敬礼)もう「いただきもの長者」って名札をココロにつけて生きていきますよオイラ(嬉しすぎて混乱中)
 いただいた順番としては「保健室にて k-side.」が先ですが、続編ということでこちらが後ろになるよう並べさせていただいております。軍曹さんのがまんっぷりを堪能いたしたく(オイ)!
     にれの木立さま、本当にありがとうございます!