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・女性向け二次創作サイト・「フルメタル・パニック!」宗介×かなめを取り扱っております・二次創作物、ノーマルカップリングの苦手な方、15才未満の方、荒らしさんはご遠慮下さい
ドアに取っ手と見定めてそのじつドアでも取っ手でもなく
窓だったとしたら
そんなことは日常茶飯事(それでも開いてはしまうのだ)


 まだ新しい石の角で、ぱしゃり、と透明な水がはね返る。これでは彼女に叱られてしまうかもしれない、と相良宗介は顔をしかめた。
 長柄のひしゃくで手桶の中の水をすくうのも、すくった水を石柱状のモニュメントに注ぐのも彼女に教わったとおりにしているつもりなのに、どうも自分がするとやり方が粗いように思えてしまう。
 鏡のようになめらかな表面に薄くついた緑のものは苔だろうか、茶色のごわごわした繊維を固く束ねた柄のないブラシ状のものでできるだけ丁寧にこすると、簡単にはがれる。これも教わったとおりだ。
 亀の子束子っていうのよ。
 と、どこか得意そうな機嫌のいい声が脳の中で再生されて、への字にきつく結んでいた彼の口元がわずかにゆるむ。
 『相良くん』も『ソースケ』も、彼女が自分を呼んだ声は一生忘れない。
 今日の空模様のように晴れわたった天上の青のような、それでいて命を奪う砂漠の干天とは違ってどこかに慈雨の気配を含む声を想いながら、墓石の上から静かに水を注ぐと、細かな汚れがゆるやかに流れ落ちていく。もともと何かを磨いたり手入れしたりするのが苦にならない性分の宗介はうむ、とひとり満足して作業を続けながら、ふと思う。
 この下に納められているのは、夫を残して死んだ妻の一部である。
 戦場で死者を弔って墓標を立てる場合は「ここに眠る」と書き、また他では「冥府に旅立った」「天に召された」などとも言う。ならばこの墓に祀られているひとは本当はどこへ行ったのか。それとも既に永久に失われているにもかかわらず、残されたもののためにそういう事にしてあるだけなのか。
 どこかへ行ったなら追う事も可能だろう。けれど後者であったなら、と宗介は眉間にしわを寄せた。未だ健在の身には、それを検証する手段がないからである。
 彼女はどこへ行ったのだろう、と宗介が首をめぐらすと、小さな白っぽい花びらがはらりと舞い落ちて、墓石の台にたまった水に浮かぶ。ごく近くに花の咲いた木があるのは検知済みだ。
 むう、と彼は小さな発泡スチロールのトレイに積まれた白い団子を見つめる。ラップにトレイごとくるまれているとはいえ、本当にこれはこのままここへ置いていいのだろうか。全体と言わぬまでもこの石の削られた辺りだけでもタオルか何かでぬぐった方が良いのではなかろうか。
 シラタマダンゴというこの供物を死者が本当に食べるわけでは無いことはわかっている。だがおそらくは墓地の管理人が片づけるであろうこれが、あまり衛生的とは言えない状態になるのは好ましくない。
 そう、「好ましくない」。のちに誰かが食らうわけでもなく、いっそプラスチックのボールであっても特にかまわないだろう、事実そうする場合もあるのだという儀礼的な飾り物であるにもかかわらず、今の自分は、そう思う。
 以前の自分であれば、貴重な食糧を弔いのために浪費することに対して、意味を見いだせただろうか。
 敵味方問わず死体は不衛生であるとしてASで掘った穴に放り込むか、心理戦に有用な物資として利用するかはした。周囲の慣習にそって埋めることもあった。誰かが死者の痕跡に思い入れを持つことをわざわざ咎め立てしない代わり、自分から確認以外で死体のもとを訪れることもなかった。そういう人間だと思われていることに、特に不自由もなかった。
 かつて同胞であった人々のいなくなった村を見て、何らかの空しさや惜しいという思いや、居場所を奪った敵に対する腹立たしさを感じはしても、人数分の墓石をそこに立ててやり生者と同じく扱うという発想はなかった。そう遺言されていれば従ったとは、思う。
 実際、以前いた村の老人に「死者は弔うものだ、無用な無礼ははたらくものでは無い」とも教わっていたし、業務として敵の挑発や鎮圧が必要な場合にやむを得ず、という場合をのぞき、無駄に死者を貶めるなどしてはいない。そんな趣味はないからだ。
 それでも積極的に死んだ誰かをその技量を含めて惜しむのでなく、悼む、ということは、おそらくは無かったように思う。それは自分の在りようの中では、贅沢品の一種で必需品ではなかった。少なくとも、以前の自分は記憶にある限り、そういう人間だった、はずだ。
―では、今は。
 トレイに盛られた白い団子を見つめたまま、知らず握りしめた拳の内側が汗ばむ。
 かつて護衛対象である人物に不快な接触を行った同学年の男子生徒に対して「およそこの世で考えうる限りの苦痛を、貴様の妻や子供に与えてやる」と脅したことを思い出す。
 その必要のある時に敵の妻子を拷問することを臆していては優秀な兵士とは言えまい。だが「妻子を損なわれる」ということが、家長として恥だという以外のダメージを持つものだということさえ知らなかった頃と同じようには、もうふるまえない。
 白く華奢な首の後ろで束ねられていた黒髪の香りが、鼻先をかすめたような気がした。
 錯覚だとわかっていても、その錯覚からつられるように、ほっそりした手で団子を丸めていた黒髪の主のていねいな仕草を思い出してしまうことを止められるわけでもなく。

 いつもの事ながら唐突に(かなめにとってはそうではないようだったが)、粉類の入ったとおぼしき使いさしの袋を台所の棚から引っぱり出して彼女は宗介に提案してきた。
「ソースケもお団子作る?」
「お団子?」
「ほら、この絵みたいにこの粉を練って丸めてゆでるの。お砂糖つけたりきなこまぶしたりお汁粉に入れたり、フルーツの缶詰と一緒に食べたりするのね。お供えにも使うけど。味はお餅に似てるかな、大福の外側とか。みたらし団子は…あんた食べたことあったっけ?」
 ないぞ、と答えたら、ことさら得意そうに胸を張り「じゃあ作ってあげるからあんたも手伝いなさい。えーっと、お皿取って来て。大きい平たいやつ。あとお鍋も」と用意をはじめた彼女の横顔が、自分に直接向けられている時とは少し違った表情に見えて、宗介は一瞬戸惑う。
 自分が何かまずい事を言ったのか、それとも他の理由によるのか、あとでこの事は理由の分からない彼女の激昂につながりはしないのか。ちらちらと横目で見ながら彼女に指示された通りの道具を揃えながら考えるも、明確な答えは出ない。
「少しずつ水を足して練り、直径二センチくらいに丸め、沸騰した湯に入れて浮き上がったら一分ほどそのまま置いてから氷水の中に取る、と」
 袋の後ろに簡潔に書いてあるレシピを復唱し、かなめはとりあえず固さの指標を確認するため自分の耳たぶを触ってみる。
 エプロンをして髪を首の後ろでまとめた彼女が、袋の後ろを睨んで自分の耳を揉みながら、むー、とうなっているのを、彼専用エプロンを装着した宗介は一切の感情を顔面に出さぬよう注意しつつ見下ろしてのち説明文を彼女の邪魔にならぬようのぞき見ると、おおよその事情を察した。
 なるほど、固さの指標が人体の耳たぶなのか、と彼は自分の耳をさわり「しかしこの説明文の制作者は人類の耳たぶの固さの平均値をもとにして、これを書いたのだろうか」と思い至り、とりあえずここには自分と彼女の二人がいる以上、互いの耳たぶの固さの平均を取ればより完成された失敗のない「シラタマダンゴ」とやらになるだろうと結論づける。
 …無断で接触するのは、相手が誰であろうと危険だ。
 うむ、と彼はかなめの色の白く傷のない、形の整った小さな耳を見下ろす。
 彼女の耳に、これと言って突出した特徴はない。強いて言えば厚みも薄くやわらかそうで、日にも焼けておらず、老人や屈強な男らのような目立つ毛もなく、水商売の女のような派手な飾り物もなかった。
 ふわふわとしたうぶ毛にうっすらとおおわれて少し桃色がかったやわらかそうな耳たぶには、以前ピアスをしていたようにも記憶しているが、現在その痕は見当たらない。
 穴が小さいものの場合、長くピアスを装着していなければふさがってしまうというのは、個人の特徴を判別するコツを教わった際に覚えたことだ。
 そして個人の判別を目的としない場合、宗介には他人の耳などいちいちじっくり見る用はなく、そもそも彼の出向く類の戦場に、かなめと同じ年頃の非戦闘員はほとんどいない。
 ぬかるみを大型トラックで無理矢理通った跡だの石畳を爆撃した跡だの険しい山岳地帯の草も生えない絶壁だのしか見たことのない人間が、手入れをされたやわらかい芝生に儚い新雪がつもったさまを初めて見たのに似た感慨を持って彼女の耳を見下ろしていた彼は、眉間にしわを寄せたまま、爆弾トラップの側にいるときのように迂闊に動いてしまわないよう用心する。
 自分はよく断りもなく彼女に耳を引っぱられているが、自分が同じ事をしたら突然に無断でさわられることにひどく動揺し怒りもする彼女のことだ、きっといつもの武器でしこたま殴られてこの場から放り出されかねない。
 ならば、この説明文の内容から、彼女の耳と自分の耳との固さの比較とその平均値が「シラタマダンゴ」製作に必要であろうと自分は判断したがゆえに、その他の意図も企みも危害を加えるつもりもなく、その用途のためだけに彼女の耳の固さを触診によって確認させてもらいたいと、彼女に誤解無く伝達するにはどうしたものだろう。
 強調するべきは「必要がある」ということと「害意はない」というところか。いかがわしい意図はないと慎重に話さねば、彼女の機嫌を損ねてしまうのではないか。
 かなめの耳を凝視したまま固まっている宗介の逡巡には気付かず、彼女はちょい、と彼を見上げると「ごめんソースケ、ちょっと耳たぶさわらせて」と言いながら彼の耳をごく無造作につかんでもにもにともむと、自分の耳をもみ、もう一度彼の耳をふにふにこねくり回して「あー、こんなもんか」と呟きつつ手を洗って粉に水を足し、わっしわっしと大胆かつ的確にボウルの中をかき混ぜてひとかたまりにまとめてしまった。
「よっし、じゃあ丸めるわよ。直径だいたい二センチね。だいたいでいいから」
「…了解」
「切ってから丸めた方が大きさが揃うから、あんた先にそっち行ってて。お団子とお団子の間は少し空けてね、くっついちゃうから」
「了解」 
 この作戦の指揮権は彼女にあるのだから彼女が調査し判断することに異存も問題はない、ととりあえず彼女と出会ってから頻繁に覚えるようになった形容しがたいストレスを注意深く奥の方へ押し込めると、宗介は指示通りの作業へと移る。
 棒状に伸ばした練り粉をかなめが包丁でとんとん、と切っていく。切り出された固まりを少しくぼませた両手の真ん中でころころと転がせば、いかにも団子らしくなった。
 うむ、と彼は仕上がった球体を丁寧にチェックすると皿に置き、次の固まりを手に取る。
「へー、ソースケ上手じゃない」
「そうか?」 
 練り粉を切り終わったかなめが隣に移動してきて、ほっそりとしたてのひらの上ですり合わせるように団子を転がしながらくすくす笑った。
「何か…おかしいのか」
「んー、何でもない」
 厭な笑われ方ではなかったが居心地が悪くて、手の甲で鼻をこすったら粉がついたらしい。
「ちょ、ソースケ、粉がついてるわよ」
 どういう表情をしていいのかわからないまま顔を手でぬぐったら余計ややこしいことになったらしく、本格的に笑いだしたかなめに濡れ布巾で顔を拭かれてしまった。
 むっすりと黙ったまま無抵抗を貫いている宗介から笑顔のまま少し視線をそらしたかなめが、さらりと言う。
「こないだはお節介焼いてゴメン。てか、今もか」
「…いや」
 ん、と彼のそばを離れた彼女は湯を沸かして団子を茹ではじめた。
 彼女とこういった戦闘とはほど遠い作業をしている時に、あたたかなやわらかいものが辺りや体に充ちるような感覚は初めてではない。
 息を殺すようにして彼女の仕草を伺いつつ、どこか胸の奥のうずくような何か動かずにはおれないような気持ちになる。けれどそれは、これは自分がひたっていて良い類の感覚ではないだろうという戒めも常に同時に掻き起こしてゆく。
 例えるなら雪山で覚える眠気や兵士が戦場で手を染める麻薬に対するように、いくら魅惑的でも覚えてしまうわけにいかないものだ。何より彼女を守り、かつ自分も生き延びるために。
 それだけだろうか。
 否。
 人食い鬼と人は、同じ世界には暮らせない。
 どれだけ都合よく言いかえたとしても、自分のこの手は汚れている。汚れた手で彼女にふれて、彼女まで汚すわけにはいかない。
 彼女はこの汚れに耐えられない。ならば自分は、今に至るまで何故耐えることができたのか、できているのか。
 …それは

 余計な思考を停止して近づく気配に素早く目をやると、予想したとおり、かなめがこちらへ向かってやってくるところだった。
「雑巾借りてきたわよ、ソースケ。ってゆーかあんたまた妙な装置しかけてない?」
「…千鳥」
「何よ。ユーレイ見たような顔してないでくれる」
「ユーレイとは何だ?」
「ゴーストよ。最近じゃ頭蓋骨の内側で囁いたりするらしいわよ?」
 勝手に囁いてんじゃねーわよとあさっての方向に向かって毒づいたかなめは、気を取り直したかのように雑巾を桶の中の水にひたして絞る。万の土になって~、などと口ずさみつつちゃっちゃと千鳥家之墓と掘られた墓石をぬぐう彼女に悟られないよう周囲の墓石にしかけたトラップなどのセンサー類を起動しつつ、千鳥かなめの護衛は本日の予定についての意見を再度述べた。
「こういった施設は君の身の安全を守る上で適切とは言いがたいのだが。見晴らしがよすぎない点と石材が林立している点は地の利とも言えるが、敵にも接近の好機を与え、こちらの攻撃を防ぎうるという可能性において」
「あーもー、うっさい!だからあんたがいる日に合わせたんでしょうが。…まあ、普段から月命日もはずしまくりだしお彼岸もいろいろと忙しかったけど。私はお墓の中にいませーんとか言われても誰かが掃除だの片付けだのしなきゃだし」
「いないのか?」
「どーだろ。死んだことがないからわかんない。…お骨はそこにあるけどね」
 墓石の下の納骨堂を指さされてのぞき込んだ宗介が「千鳥、この設備は危険だ」と言いかけるのをハリセンですぱーんとはたき落としたかなめは、スチロールのトレイに乗せた団子にかけてあったラップを剥がした。また一枚はらりと飛んできた花びらが団子をかすめて、彼女は眉をしかめる。
「これ、ラップかけっぱなしってアリなのかしら…生きてるうちに聞いとけばよかったなー。えーと、ろうそくとお線香はここ、と。はー、どっこいしょ」
 お母さん、久しぶり。
 おばさんくさい言動で墓石の前にしゃがんで線香の煙にむせながら墓石に話しかけるかなめの言動はいろいろと矛盾していて、墓地の石畳から立ち上がった宗介は、むう、とうなったあと、とりあえずかなめの真似をして墓前に手を合わせる。
 どこからかいささか季節に合わぬ暖かい風が吹き付けて、敷地のすぐ外に立っている木から淡いいろのうすい花弁がまたしてもほろほろと舞い散った。
 かなめは立ち上がってことさらに伸びをすると、いかにも片付けに取りかかる風情で宣言する。 
「さて終了、と。悪いけどソースケは残りの水捨ててきて。午後からはみんなと合流だから急がなきゃね。あたしはここしまっとくから行った行った!」
 手早く指示を出して彼を水場へ追いやったかなめは、勢いよく手を動かしながら、ううう、と一人赤くなる。
 いくら用事だったとはいえ、こういったことに彼を誘うのは早まったかもしれない。
 ソースケと二人でお墓参りなんて、…なんだか、何かの報告をしに来たかのようで。
 昨日も大きな手で可愛らしいお団子を一生懸命丸めているのがおかしくて、その手つきが優しく思えて笑ってごまかしてしまった。そうしないと勢いで何か違う方へ心がころがって止まらなくなりそうだった。
 墓石の前でかなめはぐるぐると言い訳をするように脳内で呟き続ける。
 だっから、なんかのカン違いなんだっつーの。キョーコとかテッサとか、そういう話にしたがるけど!
 だってソースケがあたしを守るのは、任務、なんだし。もし任務じゃないのにあたしを守るだとか、もしあったら、冗談じゃねーわよって思うし。ていうか、シャレになんない。マジでドンパチとか頭おかしいっつうの。
 ソースケにも海の底で俺のことなんかわからないくせにみたいな感じに怒られたことあるし、…こないだだって。
 今日は振り払われたりとか、まだしてないけど。
 狂い咲きの花を見上げて、かなめは長い息を吐いた。
 けど、ソースケのアレが任務だったら、あたしにだって責任がある。彼に「帰ろう」って言っちゃったのは、あたしなんだから。
「午前中に買い出しついでにちょっと用事あるんだけど、荷物持ってよ」
 キョーコのいる前でわざと言ってやると、予想通りソースケは「俺も行く」と言った。
 それは彼の『仕事』だから。たとえどれだけ気が進まなくとも。
 だから、こっちだって、『責任』で『仕事』だった。
 陣代高校二年四組の学級委員長としての『仕事』は、クラスメートのソースケにちゃんと学生させること、だ。

「来年はちゃんと春にお花見するわよ。こういう、異常気象で狂い咲きとかのじゃなくて。テッサにも声かけとかなきゃ。クルツくんとマオさんにも」
「そうだな」
 その頃は進路も決まっているのだろうか。…この力はいったい、どうなっているのか。受験には有利だというレベルをはるかに越えた先には、何があるのだろう。
 つきつめて考えないよう、かなめは不敵に笑うと芝居がかった声で暗唱する。
「満開の桜の下には死体が埋まっている!…ってね」
「それは本当か、千鳥」
「そーいうネタの本があるのよ。中学の時の先輩がそう言っててさ、あたしもその本読んだんだけどねー。だから桜はきれいなんだ、みたいな話だったっけか、きれいなものの根っこには怖くて汚いものが埋まってますよ、みたいな話だったと思うけど」
「ふむ、死体から養分を吸って成長したのだろうな。理にかなっている」
「や、そーじゃなくって」
「違うのか?」
「まー、それもあるんだろうけど」
 宗介の視線の先、呆れたように唇をとがらせ、ほっそりとした肩先にかかる黒髪を指で払う彼女は、まだ気付いていない。
 彼女の隣に並ぶ者が、彼女とは違う世界に棲むモノだということに。
 ギャラは半分でもいい、と組織の上層部に向かって啖呵を切り、登校しはじめて数日。
 下駄箱に不審物を感知していつものように処置をして、爆発に備える。煤けた彼女が激昂しながらハリセンで自分を攻撃してきた瞬間、不意に気付いてしまった。
 そばに彼女が居たにもかかわらず、自分だけを庇ってしまっていたこと、それが彼の「いつも」であったことに。
 自分の身に染みついた行動は、どう考えても彼女を護るためのものでは無く、見捨てるためのもので。
 たしかに、第一に自分の身を守らなければいけないのは傭兵の性だ。任務の内容と天秤にかけるにしても、一番の資本は自分自身だからである。それでも、自分の当然としてきた行動のあまりの人でなしさに気付いてしまったショックは彼を打ちのめすには充分すぎた。
 彼女に出会って変わったことによって、彼女との間にある、消せない・埋められないものを自覚させられる。それが痛くてたまらない。そんな痛みがあることなど、知らなかった。
―知らなかったからこそ、今まで生きてこられたものを。
 逃げるようにその場を離れた自分に、ほんの数日もたたないうちに彼女は手を差し伸べてきた。意図的に彼女を避けたのが、かえって災いしたのもあるだろう。

 昼休みの生徒会室でたまった宿題を片づけていた宗介を見つけ出したかなめは、安堵したような怒ったような目をしてドアを閉める。
「あーもーこんなとこにいた。ほら、あんたの好物、わざわざ作ってあげたんだからね」
 元気出しなさいよ、という声を聞くことさえ恨めしくて、突き出された見慣れた弁当箱を振り払うように彼女から遠ざかる。
「…ソースケ?どしたの?」
 俺にさわるな、と叫んでしまいそうで、せっかくの好意をむげにされた彼女に怒鳴られる前に、ノートと教科書をつかんで宗介は立ち上がった。
 伸ばされた手にふれてしまえば自分はどこまでも欲するのだろう。彼女を守れもしないのに。
 そして欲した自分は、さらに彼女を守る力を失っていくに違いない。
 見捨てておいて都合よくすがって、また見捨てるのか。
 何よりも、彼女に自分のそういった面を知られてしまったら―
「…帰る」
「あっそ。好きにすれば?」
 さすがに呆れたのか、かなめが遠ざかっていく。 
 彼女に背を向けられても向かい合っても痛むならば、いっそ自分も背を向けてしまいたかった。
―にもかかわらず、現在の自分は彼女の背中を見ながら狭い墓地の通路を通り抜けているのだが。
 友人の前でふだん通りの間柄に見せかけるためなのか、仲間内での催しと個人的な用向きに付き合えと言い出してきたのは、個人的な好意からというよりおそらくは、あの時香港で宣言したとおり、彼女の学校内での役職としてのことだろう。
 それがどこかしらいらだたしくもあり、単純にありがたくもあり、止めどなくもたらされる混乱にまた落ち着かなくなる。
 なぜこんな面倒にギャラを半分も投げ打って参加しているのか、自分でもさっぱり理解できない、と目下のかなめをちらりと見やった彼は、深く長くため息をつく。

 あー、ソースケ、またため息ついてる。と彼の気配を背後に感じながら短い距離を移動中のかなめは思う。
 なんだかいろいろ諦めてる大型犬っぽいんだよね。子猫にエサ食べられちゃったとか、さらに小屋乗っ取られて昼寝されてるみたいなイメージがわくのは、アニメかなんかの影響かしら。
 本日の花見会場に選んだ場所はここから近く、日当たりの条件が似ているのか墓地のすぐそばの桜も満開になっていた。大丈夫なのかこの異常気象、と懸念しつつも花木の傍らにベンチを見つけておいた自分にグッジョブである。
 こういうところが、合わない相手からは無神経で厚かましいとの非難を受ける性分だという自覚は、ある。  
 好物だとかって押しつけがましかったかな、やっぱ。
 ほんとはソースケ、さわられるの苦手なのかもしれない。あれだけ他の人が武器を持ってるかもしれない、なんて怯えるんだから、あたしが気安くさわるのだって、ずっとガマンしてただけなのかも。
 けど、ここで引っ込んじゃうのは、なんか間違いというか、…うまく言えないけど、お節介しないといけない気がしてしょうがない。
 香港からこっち、なんでかは分からないけど、出会ったばっかの時みたいに「信じられない」とかじゃなくて、ソースケは本当だったらフツーにあたしたちみたいな生徒だったはずなのに、何かの間違いで兵隊さんをやってるんだ、って感じがするようになった。
 生活出来ないから仕方なく、じゃなくって、少なくとも、ソースケが自分で選んだりやめたりできるようにならないとフェアじゃない。
 だったら、学校は行っとかないとだし、…あたしとケンカしても、あたしのためにここに居るのが任務じゃなくなっても、もしかしたら休学したり転校したりするにしても、勉強はしとかないとダメだと思う。
 そこらへんは、がんばっててエライ。ちょっとイラっとするくらい。
 木の近くのベンチに並んで座り、かなめ作の簡単な弁当と団子の残りをみたらし団子にしたものを平らげると、宗介はバックパックから筆箱とノートを取りだした。
「あんた、こんなとこでまで宿題?ほんっと感心ね…」
「肯定だ。出席日数が足りないゆえの措置だそうだが、予定より遅れてしまった」
「藤咲先生容赦ないからねー…ちょっと見せて」
 彼に身を寄せ興味半分で宗介のノートを見るとプリントがはさみ込まれており、「これらを現代語に訳して情況を説明せよ」という指示と、いくつかの和歌が書かれていた。
『見わたせば向かつ尾上の花にほひ照りて立てるは愛(は)しき誰が妻』
『派生歌として 埴生坂花咲く岸にたつ未通女 春の永日の誰が愛しき妻』
 ざっと意味を把握したかなめは、先生いつもどういう基準で問題選んでんだろう、と遠い目になる。
「千鳥。この『未通女』とはなんだ。辞書を引いたのだが、どうも載っていないようなのだ」
「な、ちょ、じじじ自分で調べなさいよ!横着しない!辞書でダメならケータイあるでしょうが!」
 赤い顔で怒鳴られた学生傭兵は、ふむ、とうなずいて、ごつい携帯電話を取りだす。
「なるほど、字から調べるという手があったな」
「え、あ、そういうのは帰ってからっていうか、…その」
 あわてるかなめを尻目に、宗介はいささか得意げな声で説明する。
「送受信時についてのセキュリティならば問題ない。むしろ君の機材の方が心配だ。脆弱性に配慮しているとは言いがたいようだが」
「や、…そーじゃなくて」
「では何が不安材料なのだ?…ふむ、『おぼつかない』が語源の若い女性という意味らしい」
「あ、ああそう…」
「つまり既婚者の女性新兵が傾斜のある地で作戦に従事している様子なのだろう。女性も徴兵されているのであれば場所はソ連のあたりだろうか」
「埴生坂は植民地じゃねーわよ!ちゃんと書いてあんでしょうが!」
「む、これは地名だったのか。素焼きの発生地かと思っていたのだが」
「ありえねーファンタジーワールドを脳内で形成すんじゃないわよ、あんたはほんといっつもいっつも!」
 むきー、とつやのある黒髪をかきむしったかなめは、「ゴミ捨ててくる!」と言い捨てて席を立つ。
 やきもきしただけ損をした気分にさせられるのはいつものこととはいえ、自分だけがそそっかしい痛いヤツのようで腹が立ってしょうがない。
「待て千鳥、単独行動は危険だ」
 立ち上がるかなめを引き止めようと手を伸ばしたとたん、吊す糸の切れたように彼と彼女の間に花びらが降りそそぐ。
 まるで彼女が幾千のカケラになって、舞い散ってしまいそうに見えて。
 いなくなる。彼女が。手の届くどこにも。

 手足のない男が、その血と共に撒き散らした哄笑が脳裏によみがえる。

「ちょ、何ど…したの」 
 ソースケ、と腕をつかまれたかなめが彼を困ったように呼んで彼は我に返るが、ただの錯覚だとわかっているのに、彼女をつかんだ指が開かない。
『相良くん』
『ソースケ』
 こんな名は作戦ごとのコードネームと同じに、いつか無くなると思っていた。
 鋳つぶせば消える製造番号のようなものだと、ずっと思っていた。
 これが俺の名になったのは、君が呼んでくれるからだ。 
 君が、俺に未来をくれたんだ。
 それは確かに元からあったものかもしれない、けれど今までの延長線上の、消耗すれば捨てられる部品の将来でしかなかったものを、未知の可能性のあるものにしてくれたのは彼女の言葉と存在で。
 わずらわしくて面倒くさくて悩んでばかりで、ちっともすっきりしないけれど、いつか墓石に刻まれるなら、君と生きたこの名がいい。
 ソースケってば、と重ねて呼ばれて、彼はおずおずと彼女を放した。
「すまない。足下に何かあるようだったのでな」
「ん。ありがと。…えーと、べつに何もないみたいよ?」
「そうか」
「またカン違い?ほんと心配性よねー」
 自分を見上げる彼女の照れくさそうな笑顔から、夜明けの光のさす中で同じような表情の彼女に溶かされた呪いを思い出す。
 あの敵は自分の事も彼女のことも、恐るべき執念でつかんでいた。
 お荷物になるなどごめんだと、命乞いなどしないいかにも気高い女のようなその言葉を、あの時の自分は信じてしまった。 
 けれど彼女は本当に、そんな女だろうか。
 それが有効だと思えば命乞いでも何でもしてみせて、その隙をつくしたたかさも駆使して目的を果たすのではないか。
 何度心を折られても、膝をついても立ち上がるひとなのではないだろうか。
 もしかしてそうやって命の危険も顧みず、あの戦場へ自分を迎えに来てくれたのでは、なかったのか。
 彼女だって、ほんとうは、いつもとても怖かったからこそ、自分を「臆病」だと看破したのではないのだろうか。 
「…千鳥」
 君の名の甘い響きにすがってばかりの自分は、君の気持ちを助けたことはあったろうか。君に頼って、心をくじいてばかりなのではないのか。願いとうらはらなことばかりで、君にすら逆恨みの牙を向けるこの俺を、本当は重荷に感じているのではないのか。
「何よ」
「……俺も行く」 
「はいはい」
 肩をすくめて仕方がないという風情で微笑む彼女に安堵しつつも、彼はこわれやすいものを扱うように細心の注意を払う。

 千鳥。いつか、聞いてくれるか。
 あの男に殺人聖者と呼ばれたことを、そんな者は聖者でも何でもないということを、君を亡くすということがどれだけ自分にとってむごいことなのかを、…そんな大切な事実をよりによって宿敵のあの男に気付かされてしまったということを。

「ところでこういった習慣において実施期間は決まっているのか?」
「だいたい年一回の命日とお盆とお彼岸と、マメな場合は月一回命日と同じ日付の日かな。お盆は、あんたいなかったでしょ」
 ふと影が差したかのような気配に、なぜか胸がひやりとする。そばに居られない間の彼女の見知らぬ顔を垣間見た気がした宗介は、勇気をかき集めてかなめに尋ねた。
 点の連なりが線となるように、君と過ごす日々は連なるうちに、君にとっても意味のある形になりはしまいか。
「もし君が不快でないのなら、来年やそれ以降も君に墓参りの予定があれば俺も同行してもかまわないだろうか」
「へ?」
「…こういった申し出は、おかしいものなのか?」
 まじまじと見返された宗介は、きまり悪げに視線をそらす。子供じみた仕草のくせに妙に男くささも感じて、かなめもぎくしゃくと答えた。
「た、ただのお墓参りなんだけど。遊園地とかじゃないし、地味ってゆーか」
「そんなことはないぞ。なかなか貴重な体験だった」
「そ、そう?」
 口ごもるかなめを見やった宗介が、何かを紛らわせるように上を見たり下を見たり、また彼女の顔を見たり、と珍しいことにハタ目からもわかりやすい程そわそわしている。
「…どしたの?」
「仕事の予定を決めることはあるが、未来の…将来というのだろうか、そういう先々のことを約束したのはこれが初めてだ」
 どうも落ち着かん、とぼやいた彼の視線の先で、ぽかんとしていたかなめの顔が真っ赤になった。
 沈黙したままの赤面は、かなり怒っている時に顕著な兆候で、一体何が彼女の地雷だったのかと宗介は焦り、撤回した方がいいのかと彼女の様子を伺う。
 それにしても何故そんな場合ではないだろうに、彼女のこういった怒っているであろう表情に、何ともむずむずするような全身が熱くなるような、他の誰にも見えないように腕の中に強く囲っておきたいような妙な心地になるのだろう、と彼は奥歯を噛みしめた。
 今の衝動は悟られてはいけない。それに、ここは彼女の親族の墓の前だ。こういった心境でいるのは無礼なのではないかという懸念もある。
「……いいわよ、別に」
「そうか。感謝する。ところで千鳥、言っておきたいことがある」
 緊張の余り額に浮いた汗を袖でぬぐった宗介が重々しく口をひらいたので、かなめは顔をしかめて身がまえる。
「な、なによ」
「どうもこれではあまりに無防備に思えるのだが。次回はあらかじめ周囲の墓石を破壊して、ここに相応の強度の施設を設置しておくが、かまわないだろうか」
「かまうわボケぇ!よそさまに祟られたらどーしてくれんのよ、あんたは」
 かなめは緊張の反動でめいっぱい振りかぶったハリセンでもって宗介の横っ面を張り飛ばした上、何度も彼を踏みつけた。
「では、せめて周囲に監視カメラとトラップをしかけておかねば」
「それもだめ!っていうか今日あっちこっちにしかけてあった機械ぜんぶあんたのでしょうが!ちゃんとぜんぶ片づけてきなさい!」
「なぜ気付いた…?」
「なんとなくよ!いーからとっとといきなさい!」
 宗介の尻を蹴り飛ばして、ほんとにもう、と腕組みしていたかなめはしばらくぷりぷりしていたが、ふと笑い出してしまう。
 今までしなかったような仲違いに予想通りのすれ違いがくり返す毎日の、まるで線画が平面から抜け出て立体になるような変化と騒々しさをなんと呼べばいいものか。
「さーてお花見お花見っと。またシオリが脱ぐかもだし、冷えないように何かあったかいもの用意してった方が良さそうね、熱燗とかどーかしら。あんたコンロとか燃料とか持ってない?」
 装備一切合切をフルスピードで片づけて駆け戻ってきた宗介が渋い顔で注進した。
「日本では未成年の飲酒は違法だ」
「銃刀法に違反しまくってるアンタが言うな」
「…アルコールは脳細胞を破壊する」
「日本のお花見にはお酒が付き物なの。あたしが持ってかなくても誰かが持ってくんの!そんでいつの間にかジュースに混じってたりすんのよ、そーゆーもんなの!」
 びし、と指さされて番犬は困った顔になる。
「だが、君が飲酒をするのは…どうも良くない気がする」
 クソ真面目だと思いつつも大事に扱われているようで、まんざらでもない気分のかなめは、それでもいかにもしぶしぶといった体で唇をとがらせた。
「しょーがないわねー、今回は外だし学級委員命令でジュース限定ってことにしとくけど、ブーイング必須だろうし…ハタチになったら酒宴よ酒宴!もちろんあんたも参加だからね」
 宗介は何となく上機嫌の彼女の後ろ姿を眺めて、ぼんやりとした将来のことを想う。
 彼女の親族をまつる場所であるここへ、自分がまた参ることは可能だろうか。…願わくば来年もその次も、その次も。
 それにしても彼女が酔った姿を想像すると、目の前に居たかのごとくありありとその姿が浮かぶのはどういったことだろう。しかも陣代高校の制服姿で。
 強く奥歯を噛みしめる彼を振り返りざまにちらりと見上げ、スカートに添えた手を不自然に緊張させたかなめがボソっと言った。
「あのさ。…あんたあたしの足とか、見てないわよね?」
「…何の話だ」
「なんでもない。気にしなくていいから、とりあえずうしろ歩かないで、横にきて」
「承知した」
 拳を握ってずかずか歩くかなめの隣でしばらく沈黙していた宗介は、何か思い当たるフシでもあったのか、斜め上を見上げてこめかみをぽりぽりとかいた。
「スーパー寄ってくわよ、ソースケはオレンジジュースよね」
 ああ、と応えた相良宗介は背後の墓石に何か気配を感じて振り返ったが他に誰の影もなく、花びらが幾枚か舞うばかり。
 まばたきした彼は、ふと思う。
―かつて聖者と紛われた子どもは、いまはどこに埋まってしまったのだろう。


立ち上がれなどとはと言うけれど
座ったところからなのかおちこんだところからなのか
はたまた平面から立体へなのかそれともなにがしかの企てであるのだろうか
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A.S.A.P」さまのJONJONさまからいただいた素敵画像です!二つもありがとうございます!

JONJYONさまからのいただきもの2縮小

JONJYONさまからのいただきもの1縮小

わんわんおと千鳥かわええ~!フィルム枠三コマで三倍堪能できますよ奥さん(誰)!
原寸大の作品はカテゴリ「JONJONさまからのいただきもの」内のこちらへ展示させていただいております。

元ネタの拙文は以下です。


  for you


「こっち見ないで!あっち行きなさいよ、バカ!」
 と叫んだかなめは、引っつかんだボン太くんをぎゅっと抱えこんで顔を伏せた。
「すまない千鳥、だが俺は、」
「うるさい、あんたなんかもう知らない!」
 強情に張る声に涙がにじんでいるのがわかってしまって、宗介はおろおろと手を舞わせる。
 細心の注意を払って肩先にふれようとしたら「さわんないで!ソースケなんか大っ嫌い!」と、もごもごした声に叩き落とされて、ぼさぼさ頭の彼は不可視の犬耳と犬しっぽを極限までへたれさせた。
 もうほんの一瞬でも早く動いていれば、と固く膝を抱えて背を丸めた彼女をそっと見やると、抑え込むように細く呼吸をしている体がときどき細かく震えていて、心底いたたまれない。
 その日は朝からよく晴れた休日だった。相良宗介は千鳥かなめ宅に招待され、宿題の面倒を見てもらい彼女の手料理をふるまわれ、まだ洗っていない洗濯ものを回収されて乾きたてかつ畳みたての衣類を手渡された。しかもかなめは彼の訪問時が午前中であったにも関わらず終始機嫌がよかった。それだけでも何か奇跡が起こっていたに違いない。
 食後のお茶を二人ぶん持ってきてソファの足下に座り、お気に入りの音楽を聞いている彼女の背にカーテン越しの明るい光が当たっていて、これが夢であったとしてもここまで上等なものなど見たことはない、とぼうっとしていたら、聞こえないくらいの声で彼の名を囁いた彼女がこちらを見上げてきて目を閉じた。
 意識しているのか、うすく開いた果実のようなつややかな唇にも、ほんのり上気した肌理の細かいすべらかな頬にも、わずかに恥じ入るような表情にも、鼓動が激しくなりすぎて動けない。
 本当に、そう解釈してしまっていいのか。
 動いてしまったらのめり込むだろうことは確実だ。だがそれが彼女を傷めはしないか。
 間近でふれたい、だがそうすればもうこの表情は見られなくなってしまう。
 逡巡したあげく彼の我慢が限界ぎりぎりになったところで、いつまでたっても何もしようとしない宗介にキレたかなめがストライキを起こした、というのがことの次第である。。
 顔をしかめすぎてこめかみがずきずきするけれど、さっきまでしていただろう表情の片鱗も残しておきたくなくて、かなめはボン太くんのふかふかしたおなかに鼻とほっぺたを押しつける。
 ソファにお日さまが当たって、何となくのんびりしてるソースケの足下が気持ちよくて、そこでやめておけばよかったのに。
 こいつとキスしたことがない訳じゃないけど、何がきっかけかわからなかった。なのに何を期待しているのかバレるような顔をしてしまって、更にぽかんと見つめ返された。
 そんな気ないなら言いなさいよなんて文句さえ、自意識過剰で恥ずかしい。
「千鳥、俺が悪かった。顔を上げてくれ」 
「絶対いや!」
 身をよじりたくなるようないたたまれなさに苛まれているかなめに、彼は非常に申し訳なさそうに言った。  
「すまない。その、…君に恥をかかせるつもりはなかった」
 いつも通り淡々とした響きの声に耳が燃えるように熱くなった彼女は、今度は妙に頭が冷えてきてしまった。
 何その、据え膳食わぬは男の恥、みたいな台詞は。
 据え膳。このあたしが。はっ。
「…千鳥」
 かなめは顔を上げてティッシュケースを引き寄せると、盛大に鼻をかみついでにほっぺたや目元も強引にぬぐって、くず籠にぽいっと放り込む。メイクが崩れてたって知るもんか。
「うっさい。もう二度とやんない。あんな顔するの、すっごく恥ずかしいんだからね」
「そうなのか?」
「そうよ。あんな、みっともない顔」
 何だってこいつにあんな顔しちゃったんだろう。今日一日はりきってた自分がバカバカしくてしょうがない。
 かなめはフン、と腕組みをして横を向いた。
「みっともなくないぞ」
「あるわよ。こんな、にゅーって口突き出してさ。ばっかみたい」
「そんな、ことは…ない」
 先ほどの彼女の表情を思い浮かべてしまった彼の心臓が、ばくん、と鳴った。
 あの顔が自分だけに向けられていたのかと思うと、嬉しくて顔がゆるむ。だが、自分の不手際でふれられもしなかった。
 迂闊なことを言えば二度と見せてもらえないだろうが、…何か良い策はないものだろうか。
 彼女をちらりと見て咳払いする彼の仕草に、あ、コイツいま笑うのこらえたわね、と取ったかなめはカチンときて噛み付く。
「ああそう。ならあんたもやってみなさいよ、ほら!」
 はじめからすっぽかして笑ってやるつもりで、かなめはせせら笑ったが、宗介は、ふむ、と彼女の提案にうなずく。
 あれがキスを待っていた顔だという解釈で正しかったのならば、自分が同じようにすれば彼女からしてくれる、と言う話らしい。
 悪くない提案だ。いや、そのくらいで済むならばいくらでもかまわない。よし、と腹を決めた宗介は彼女の側ににじり寄る。
「この辺りか?」
「高い。もっとかがんで」
「こうか?」
 膝立ちの彼女の前に正座して目を閉じて上を向くと、恐怖に似た感覚で鼓動が強くなった。物心ついてからこれだけ襲撃に対して何の防御も構えもない姿勢など取った覚えがないのだから当然だ。
だが彼女の前ではのどをさらそうが腹をさらそうが、庇う気はない。何かされたところで、かまいはしない。
思ったより長く濃い睫毛と整った顔立ちに、彼女はどきっとした。
 過酷な環境に育って、同年代よりはるかに大人びた風貌の彼がたくさんの傷の残る肌を庇いもせず無防備な顔をしているのが、何故かとても胸に刺さる。
「…もっと唇に力入れなさいよ」
 ただの悔し紛れで言っただけのことに、眠るときでさえまともに目も閉じないほど敵襲に備えて周囲を警戒することだけを生きていく上での第一項目にしていた彼が、自分の前では目を閉じて急所さえ見せても微動だにせずにいるという事実に、意地悪でも言わないと胸が痛くて痛くて泣きそうだった。 
「ふんだ、変な顔!」
「……そうか」
 宗介は落ち込む気持ちをおくびにも出さずに、そのポーズのままでいると、かなめの声から力が抜けた。
「…いいわよ、もう」
 やめなさい、と呟いた彼女の気配が遠ざかりそうで、宗介は目を開けると、真摯な声で彼女に呼びかけた。
「千鳥」
「何よ」
「この格好でいれば、君がキスしてくれるのではないのか」
 かなめは真っ赤になってうつむいた。
「…あんただってしなかったじゃない」
「……あれは、君、が」
「何よ。どーせヘンな顔すぎてやる気なくなったんでしょ、あんたさっき笑ったじゃない。もういいって言ってんでしょ!」
「違う、逆だ」
 作戦の失敗を覚った宗介は熱をこめて言いつのる。
「君の顔をもっと見ていたかったのだが、あのまま君にキスしてしまうと見られなくなるのが惜しいと思ったのだ。だが俺は君とキスもしたい。どうかもう一度あのようにしてくれないだろうか」
「………やだ」
「頼む、千鳥」
「みっともないからやだって言ってんでしょ!」
「みっともなくないぞ、実に魅力的だった。良い顔だ」
「もうやめて!気持ち悪い!」
 耳をふさいで頭を振ったかなめが赤い顔のまま逃げだそうとして、焦った彼は素早く手を伸ばし彼女の細腕をつかんで強引に抱き込んでしまう。気持ち悪いと言われてしまったことに胸がずきずきと痛むが、もう我慢の限界だった。
「俺は君とキスがしたい」
 返事がない彼女のふさがれた耳に、必死で訴える。
「だめか?」 
 もう!と怒ったような声と共に胸板を強く突き放されながらも、彼は彼女の上気した頬と潤んだ瞳と紅い唇に見とれてしまった。涙に濡れ薄化粧のぬぐわれた肌に誘われて、いっそ許可を待たずに彼女にふれてしまいたくて、こらえているのがつらくなる。
「……一回だけだからね」
「…わかった」
 不本意だが仕方がない、今後も粘り強く交渉してみよう、と彼は彼女の前に真面目な顔で気を付けをした。
 かなめは目を閉じて上を向く。が、やはり何も起こらない。
 彼の視線のかする頬は、さっき化粧崩れもかまわないで強くぬぐっていたことを思い出す。ひょっとしたらとんでもないことになっているかも知れないのに、彼の言葉にのせられて調子に乗ってしまった。
 信じたぶんだけ、彼と会うのを楽しみにしていただけみじめで悲しくなって顔を背けようとしたら、いつの間にか体に回されていた腕と手に素早く押さえ込まれる。
 間近で息を飲む気配がして、直後思いきり唇がぶつかってくるのを感じて固く目をつぶったら、すぐに離れてやわらかくふれられた。
 けれどそれもすぐに求めるように激しいものに変わり、指先まで、じん、と痺れるのを強く絡めとられて涙がにじむ。
 息が切れるのを解放されても、何度も奥深くまでとらえられて、濡れた音や声が抑えきれずに漏れるのが恥ずかしくてたまらないのに、彼にふれられたところ全てから熱が募って身体の芯から解け崩れそうだった。
 しばらく後、どうにか口がきけるまで呼吸の落ち着いた彼女は、迫力に欠ける声で舌足らずに怒鳴る。
「あ、あんた、なんかだいっきらい、なんだからっ」
 彼女の髪や背をくり返し撫で下ろし「そうか」と答えた静かな声の主が、底知れぬ痛みに耐えるようにきつく眉をひそめていることを、彼の袖にしがみついて顔を伏せている彼女は知らない。
 ふれればふれただけ彼女の形をかたどるように心の奥に型押しされていくようなこの感覚が、この先消えることなどないだろう。
「俺は君が好きだぞ」
「…っ、ソースケとキスしたら苦しいしっ、変になっちゃうしっ」
 明かな涙声で訴えられた彼はそれは困る、と言った。
「では、どうすれば俺は君に好かれるのか、教えてくれ。努力する」
「…知らない」
 ばか、と小さな声で呟いた彼女は彼の胸を両手で押して、上目遣いに彼を見た。眩しそうな眼差しに苦いものを混ぜたまま、宗介は彼女の名を呼ぶ。
「…千鳥」 
「もうこれ以上好きになるのなんか無理だもの」
「………そ、そうなのか」
 彼女を見下ろしていた彼があわてて斜め上を見上げながらゆで上がるように真っ赤になったのを見て、涙目の彼女はようやく笑った。

「だから!下駄箱に何か入ってるかも知れないっつっても、フツーは爆破なんかしないもんなの!」
「だが千鳥、何度も言うが仕掛けられているものが危険物であった場合は可及的速やかに相応の処分を」
「あーもー、ちったー素直に人の言うこと聞きなさい、大体あんたの下駄箱にほんとに危ない物が入ってたことが今までにあった?知らない人からもらうもんってせいぜい手紙くらいでしょうが、ほらこんな風に!」
 ぱかん、と自分の下駄箱を開けて中を見せた千鳥かなめは、ん?と中をのぞき込み、茶色っぽい長方形の封筒らしきものに手を伸ばす。
 が、届かない。彼女の番犬いやクラスメート、校内における安全保障問題担当・生徒会長補佐官の相良宗介が、無言で彼女の手首を握っていたからである。
「ちょっとソースケ。離しなさいよ」
 何となく彼の態度にどきっとしたかなめは、またいつものアレだって、勘違いすると後が痛いんだからと自分に言い聞かせながら、いかにも気の強いクラスメート女子の声で言ってやる。
 案の定、かなめの下駄箱の中を油断無く凝視していた彼は「危険だ千鳥。軽率な行動は慎め」と抑えた声で鋭く言った。
 彼の口ぶりと語彙に何故かムカっときた彼女は反射的に手を振りほどこうとしたが外れないので、一度手を下ろす。宗介が手を放すのを待ってから、低い声で言い返した。
「見たところ、爆発はしてないわよね」
「炭疽菌や経皮性毒物を塗布されている可能性もあるぞ。ともかくこれは俺が責任を持って調べる、君は手を出すな」
 厳しい調子で言い放って鞄からゴム手袋を引っぱり出している宗介を横目で見やったかなめは、ひょいと手を突っ込んで飾り気のない茶封筒を手に取ると、靴を履き替えて教室へ向かった。
「千鳥!何をしている!」
「手紙読んでるの、邪魔しないで」
 歩きながら封を切ったありがちな茶封筒にはボールペンによる簡素な字体で「千鳥かなめ様」と書かれており、中には同じ字体で放課後体育館裏へ来て下さい、という呼び出し状が入っていた。かなめは何か言いたげに周りをうろうろしている宗介を無視して鞄にそれらをしまい込むと、授業の準備に取りかかる。
 実のところ二年になってから激減しただけでこのテのものはもらい慣れている彼女は、名前だけだと何年かわかんないけどどんな相手なんだろうと淡々と考えた。
 もろもろが忙しくてそんな余裕もないしそういうことをキッカケにするタイプでもないからどうせごめんなさいするにしたって、あとあとを考えればお互い必要以上にひどい印象を持ち合わないことは大事だろう。
 用件のみというのが味気なくはあるけれど余計なことを書いておらず、読みづらさもなく独りよがりさが臭って来ないシンプルな字や文体には好感が持てる。
 かなめは先ほどから何となく視線が後方から刺さってくる気がして、頬杖をついて窓の外を見ながら考えた。
 あんただって佐伯さんに手紙もらってたじゃないのよ、とは面と向かって言えないにしろ、プライベートな用なんだから尾行したりしないように、って教えないと。
 にしても、あいつにそういうこと言うと自意識過剰みたいでヤな女に見えるのが難だわ。まあ最近、あいつのヘンさとかもの知らずっぷりが周りにもよくわかってきたみたいで、そこは助かるんだけど。
 相手がストーカータイプとか実は嫌がらせだとかで、あいつが絡むにしろ絡まないにしろ大モメ、だって有り得るわよね。…すっごくいい人でちょっとタイプでも、やっぱり気が重いし。ていうかむしろそっちのがツライか。
 知らない相手に見初められてしまったことより、それを面倒と思ってしまう自分のスレっぷりにため息をついて、かなめは愛用のシャープペンシルの尻をカチカチと押した。
 授業後、何か言われる前に彼の前を通り過ぎながら「ついて来ちゃダメよー」と素っ気なく抑揚のない声で告げて早足で体育館裏へ辿り着くと、待っていたのは他のクラスの生徒と思しき集団だった。見ると同学年だけでなく一年に三年に、人数は少ないが女子もいる。
「あの、千鳥かなめさん」
「はい?」
 からかっているにしては真面目そうな生徒ばかりで、けげんな顔になったかなめに全員が頭を下げた。
「突然お呼び出ししてすみません、僕たち『テレサ・マンティッサ非公式ファンクラブ』と言います!」
 代表らしい、爽やかではあるが少々真面目すぎる少年が言った。その時点で半分ネタの割れたかなめは、いささかだらしなく半眼になって生返事を返した。
「…あー、はいはい」 
「千鳥さんはテレサ・マンティッサさんとお友達だと伺っています。お手数をおかけしてすみませんが、ファンレターの仲介をお願いします!」
「えっ…と、あたしよりもソースケ…相良くんに頼んだ方がいいわよ?あたしも相良くんがテッサに会うときに頼む形になるから、そっちの方がややこしくなくていいと思うけど」
「特に親しいのは相良さんだそうですが、敢えて千鳥さんにお願いします!」
 だいたいの事情を察したかなめは、こめかみを押さえて肩を落とした。
「…ソースケの下駄箱に手紙を入れたら爆破されるから、あたしなわけね?」
「そういうことです!」
「なら下駄箱に入れずに普通に頼めばよかったのに。あたしにでも、ソースケにでも」
「それが、誰が頼んでも相良くんには『スパイか』とか『どこの組織の人間だ』とか『彼女に接触する資格は貴様にはない』って言われちゃって…」
 うんうん、と彼とよく似た雰囲気の集団が肯く。その仕草があまりに似通いすぎていて、うっすらと宗教団体っぽい。
 資格、ねえ。
 何故か少々ムカっとしたのは、彼の口ぶりがリアルに想像できるからだろうか。
 まあ一応、仕事が仕事だからそうなるんだろうけど。ガッコじゃテッサはトモダチだっての、と彼女は渋い顔になる。
 自分宛の呼び出しかと思えばテッサあてで、しかも宗介が断ったからだというのが妙に面白くない。しかもポスト代わりが因縁じみているのが余計だ。
「でも、あたしにまで下駄箱に手紙入れなくてもいいでしょ?うちのガッコそんなに上下うるさくないから、教室に来づらいってこともないと思うけど」
『いえ。相良くんを直接訪ねるより行きづらかったです。』
 と、何故か全員の声がハモったので、かなめはふーんと首を傾げつつ頭をぼりぼりかいて「いちお出してみるけどテッサも忙しいから、返事は来ないかもだけどいい?」と言いながら、茶封筒に入った手紙の束を受け取った。
 今回あらかじめ行き先は言ってないから、前みたいに草だらけの格好でそこらにずっといる、ってのはないかもだけど。と彼女は口に手をかざし迷子の飼い犬でも呼ぶように「ソースケー!」と周囲に呼びかける。
 途端に植え込みの裏からガサガサっと音がして、頭に葉っぱをつけた相良宗介が立ち上がった。そこが以前、彼を待つ佐伯恵那を覗き見していた辺りだと知ったかなめは、うー、と目を泳がせて一瞬気まずい顔になったけれど、視線を少しそらせたまま茶封筒を彼に差し出した。
「聞いてたんでしょ。テッサにだって。渡しといてあげて」
「だが大佐殿を狙う輩が彼らの内の誰かを買収しているかも知れん。危険物の混入が予測されるので念のため爆破ののち検閲を」
「すなっ!」
 すぱあああん、と光速の勢いでハリセンをふるったかなめは「んじゃあんたは何もしないで、そのままマオさんか号令係のおじさんに出しときなさい」と彼に茶封筒を押しつけると「来ちゃダメって言ったでしょ」とぼそりと言って歩き出す。
 うっすらと染まった頬の残像に一瞬気を取られた宗介は、すぐに内心の姿勢を立て直して、彼女の後を追った。  
 …彼女はときどきあのように、この世に敵などいないかのごとく心理的な無防備さをさらすような表情をする。護衛の自分の前ならば問題はないが、何を企んでいるのか知れん余人の前では危険すぎる。
 やはり校内とはいえ見慣れぬ人物からの千鳥への接触は、これまで通り専門家である俺を通してからというのが最も安全かつ確実だろう。
 …これは不本意だが、念のため金属及び放射能探知機を通し消毒液を噴霧したのち専用コンテナで一旦マオへ送るか、と彼は厳しい眼差しで極秘部隊の極秘作戦に従事する彼の上官宛の私信を見やった。
 さて後日。
「千鳥。先日の手紙のことなのだが、大佐どのがたいそう喜んでおられた。返事は出せそうにないが、君や皆に礼を言っておいて欲しいとの伝言だ」
「ん。今度会ったら言っとくわ」
「それから、よければ君からも手紙が欲しい、とのことだ」
「えー?絵葉書まだあったかな。あんたに渡して届くなら、クラスの他の子にも声かけようか」
 ごちそうさま、と手を合わせるかなめと既に食べ終わった宗介の弁当の中身は、メニューが同じだった。目ざとい生徒にからかわれるのを防止するのと用事の片付けを兼ねて生徒会室に他の生徒がいないのを確認の上、時間をずらして昼食を取っていたのであるが、生徒会室の備品である湯飲みを使用して食後の一服、と洒落込んでいるとかなめのお相伴にあずかった宗介が湯飲みに目を落としたまま、ぼそりと呟いた。 
「…手紙とは良いもののようだな」
「まあ、そりゃ場合によるけど、だいたいはね」
 そう言ったあと、かなめはふと思いついて尋ねる。
「あんたも手紙もらったりすんの?」
「…通信文ならあるぞ」
「や、そーじゃなくて。えーと、プライベートの…私信?ての?」
「少佐の亡くなった奥方から少佐あてに来たものなら、見たことがある」
 ふーん、と言ったかなめは、用を片付けついでに書くつもりだった懸賞応募用の葉書をちらりと見る。くじが外れたあまりものの葉書の束には、とっくに終わった夏の図柄が淡い色で刷られていて、…迷ったあげく出しそびれてしまっていた彼宛の暑中見舞いが混じっていた。
 目の前の彼の住処に届けるのに投函するのもバカバカしく、かといって自力で配達するのもどうかなどと思っているうちに暑中は残暑になって、夏の終わりのどたばたに紛れてくじの発表も済んでしまい、彼宛の葉書がハズレなのが判明したらますます出せなくなってしまったものだ。
 べ、別に絶対渡さなきゃいけない、って訳でもないんだけど。郵便局に持って行き忘れてただけだし。
「はいこれ。ついでだからあんたにあげるわ」
 いかにも今書きました、と言わんばかりに事務的に突きだした彼女は、黒のボールペンで懸賞の宛先を書く作業に戻る。
 少しでも涼しげであるようになのか、濃い青インクで自分の名の書かれた暑中見舞いの両面をしばし見つめていた宗介は、彼にしては珍しく少しばかりこもったような口調で「その、千鳥。返事、は」と言ったのち、いくつか咳払いした。
「あー。気が向いたらでいいわよ」
 自分の手元に視線を落として開いた手をぞんざいにひらひらと振った彼女の頬や首筋がうっすらと紅いのを見てしまった彼は、さりげなく斜め上を見上げて自分が何に動揺しているのかわからないまま、ぽりぽりと頬をかいた。

「ソースケ、ちょっと手貸してくれる?」
「かまわんが、何を手伝えばいいのだ?」
「あ、そーじゃなくて」
 かなめは机ごしに宗介の手を取って手元に引っぱると、ごつごつとした傷だらけの手を広げ、やはり広げた自分の手と手の平どうしを合わせた。
 色も厚みも違う手の平のサイズは、宗介の方が一回り半ほど大きい。
 むー、としばらく比べていた彼女は指の股と股を揃えて、真剣に真横から見たり指に力を入れてまっすぐに伸ばしたり全部の指を互いに比べてみたりしたが、やがて彼女は「もー」とふくれながら言った。
「指が長いの、けっこう自慢だったんだけどなー」
「…すまん、もういいか」
 無表情ながらも困った様子で言われて、かなめは「あ、ごめんね」と素直に彼の手を解放する。
 自席に戻るほっそりした背姿を見送って、うっかり握ってしまわなくてよかった、と彼はそっと息をつく。
 何事もなく授業は済んで、かなめはやたら背筋の伸びている番犬を夕飯に誘った。食事もあと片付けも済ませて宿題をやっつけるとヒマになった。
 欠席日数のぶん彼女よりもはるかに多い分量をこなす宗介を尻目にファッション誌のネイル特集ページなど眺めていたかなめは、むーん、と手を広げてかざし、想像上のマニキュアを爪の上にのせて見る。
 普段ハデなのするなら付け爪かなあ、などとぼんやりと考えていたら、一段落ついたのか宗介がノートを綴じて脇へ置き、しばし考えてから口を開いた。
「千鳥」
「んー、何?」
「手を見せてくれないか」
「手?何で?」
「いや、先ほど、…少し気になってな」
「え、何?何かおかしい?あたしの手」
「そういうわけではないのだが」
 怖いことに詳しい彼のことだから何か病気の兆候でも見つけたのかもとも思うが、そもそもが誤解の超発展、という状況の方がはるかに多い。これで濃い暗色のマニキュアなどしていたら、内臓疾患かだの壊死している可能性がだの言いかねない、と念のため爪の辺りを眺めてみるが、何度見ても自分でも承知の通りせいぜい爪磨きで磨いた程度の状態である。
「まあいいわ、はい」
 宗介は、いささか渋い顔で差し出されたかなめの両手をすくい取るように慎重な手つきで持ち上げる。
 注意深く指の腹でさすると、ほっそりした柔らかい指先は記憶の中のものよりすべすべと繊細な感触だった。
 ていねいに磨かれた貝殻のような細く長い爪は半ば透きとおっていて、傷や薬剤で濁って分厚い己のものと並べると余計その差が目立つ。
 何より、まとうにおいが決定的に違っている。訓練された上官たちの手も「女の手」ではあるけれど、やはり彼女らは自分の側の人間だと今ならば一目で分る。
 具体的な硝煙くささではないし、一概に悪意や害意とも言えず、ある種の覚悟であるそれは、本来なら不必要なものなのだと、この地で既に証明されてしまっていた。
 それがたとえごく限られた地域のことであっても、相応の制限や陰謀はあっても、表向きだけのことでも、かなめの暮らすここは自分にとって天国と同じ意味だ。
 一般市民が銃を持つことを当たり前としていないこの社会の、モノだけに限らない豊かさは、自分の渡り歩いた戦地のそれらを全て集めたものをはるかに凌駕している。
 例外はあるだろう。だが子どもが銃を持たねば飢えることも、夜に灯りを灯して爆撃されることも、国家元首相手にバカと呟いて投獄されることもない。
 ここに当たり前に住まう彼らからすれば、自分の育った場所は地獄とも悪夢とも呼ばれうるのだろう。
 この世界の皆が一度だって自分のような環境で生きていれば、自分の正しさを彼女にも納得させられるだろうと考えたこともあるけれど、彼女にはここで幸せになって欲しい。
 自分の仕事が彼女を戦場から遠ざけるために役立つというのなら、彼女が自分の作る盾のはるか後方で幸せでいてくれるのなら。
 そのためなら、自分の在りようなど理解されなくともいい。
 彼女がそうと知らなくとも、…いつか彼女と同じ世界にいられなくなっても、かまわない。
―だからどうかこのやわらかな手が、冷たい銃把など握ることのないように。
 祈るように、そろりと撫でると、ひんやりとしていた指先は先ほどより少し温かく、心の奥の乾いていたところをやわらかな霧雨に包まれるような心地がして、彼は知らず頬をゆるめて息を吐いた。
 無言で、す、と手を引っ込められてしまってから理由が解らず顔を上げると、顔をうつむけた彼女が困ったように眉をひそめていて、言いづらそうにぼそぼそと呟いた。
「あのね、ごめんソースケ、ちょっと…くすぐったい」
 ふわりとかげろうの立ちのぼるように甘い匂いが香り色の白い横顔の頬と耳の辺りがうっすらと染まっているのを見たとたん、彼の心臓も急に何事かに気付いたように大きく鳴りだして全身が燃えるように熱くなり汗が噴き出してくる。
 即座に手を引いて「すまん」と謝った彼自身にも、自分が何故謝ったのか、それが一体何に対しての言葉なのか、よく解らなかった。


 陣代高校生徒会室のドアががらりと開いた。大あくびしながらがに股で入ってきたのは超音速のオヤジギャルこと、生徒会副会長の千鳥かなめである。
 彼女はさらにナイスバデーの横っ腹をボリボリかくというその陰口じみた二つ名にふさわしい振る舞いをこれでもかと見せ付けていたが、幸い室内には生徒会書記・お蓮さんこと美樹原蓮しかいなかった。
 その蓮は、会議用机の上に新聞紙を広げて何か細いものを変わった形の鋏で切っている。
「うぃーっす。あれ?何してんのお連さん」
「はい、明日学校にお客さまがいらっしゃるそうなので、これを活けておくよう校長先生に頼まれました」
 ふーん、と蓮の手元をのぞき込むまでもなく剣山と濃い色の皿のような花器がわきに置いてあるのが見える。
 和服の袖をまとっているのかと錯覚するほどたおやかかつ流れるような蓮の動きに、おっさんじみた不作法さをいかんなく披露していたかなめも素直に見とれる。
「お連さんって生け花も得意よねー」
「恐れ入ります」
 しなやかな細い茎のてっぺんに濃い赤紫の花房が棒付きキャンディーのようにくっついている草を、蓮は器用に剣山に立ててまとめていく。だがしかし、どちらかというと名脇役といった花の風情のせいか、景色に彩りをそえるというよりも背景にカモフラージュしてしまいそうな仕上がりである。
「それにしても地味ねー、なんて花?」
「ワレモコウと言います。校庭に植えてあったものを大貫さんに分けていただきました」
 へー、とかなめはパイプ椅子に座り肘をついて、地味な苺にも赤く染めた小ぶりの猫じゃらしにも似た花の先をつつきかけて、おっと剣山から外しちゃヤバいか、と手を引っ込めてから、む、と考える。
 剣山。
 水の入った重そうな容れ物。
 見慣れない植物、というか飾り物。
 あー、とかなめは半眼で頭をぼりぼりかいた。
 こういうものに過剰反応しそうな安全保障問題担当・生徒会長補佐官といううろんな役職名のクラスメートの顔がもろに思い浮かんだからである。
「えーっと。一応聞いとくけど。この花、毒とかは…ないよね?」
 毒って。仮にも女子高生が生徒会の仲間に聞くボキャブラリーと質問じゃないっつーのとほほほ、というニュアンスを故意以上ににじませつつ、彼女は情けない表情と調子で尋ねた。普通なら変なこと聞いてゴメンと謝らなければいけないところだが、この校内においてその謝罪は独裁政権における形式だけの儀礼よりも空しい。
 それにもしも現役傭兵な戦争バカが暴走したら、美樹原蓮ではストッパーにならないだろう。暴風のように行きすぎた彼をはるかに見送りつつ、やんわりと彼の誤解を正直に訂正するのが関の山である。
 お蓮さんちの方があたしよりよっぽどあのヴァカに近いはずなのにー、と彼女の家に親しく出入りしている禿頭のチンピラどもなど思い出しながらかなめは嘆いたが、強面の「従業員」に取り囲まれようが目の前で抗争があろうが常と同じ調子を崩さない、ある意味最強の肝っ玉の持ち主たる大和撫子はおっとりした声音で答えて微笑んだ。
「はい、毒ではありませんが、たしか血止めに効くのだそうです」
 薬って言ってもヤツのことだし何かしでかしそう、と考えたかなめは他にヤツの気をそっち方向からそらせるようなネタはないか、と頭をひねる。
「んーと、ワレモコウ、だっけ。何て意味?」
「いくつかあるようですが、有名なのは吾も恋う、でしょうか。大貫さんの受け売りですけど、和歌にもいくつか詠まれているそうですよ」
「そっか、ありがと、お蓮さん」
 花に詳しいと女の人って感じよねー、と彼女はどこか亡き母親に似たものを古風な美人の学友に感じつつ、和歌っつーとあいつの苦手分野だわね、古文の宿題ちゃんと済んだのかしらと遊び盛りの子供を持ったお母ちゃんのように渋い顔をした。
「どうしました、千鳥さん?」
「あ、何でもない、うは、うはははは。ところでこれだけだとちょっと地味すぎない?」 
「そうですね、鉢植えや花壇だと数があるのでそうでもないのですが、これだけだとやはり少しもの足りない感じがしますものね。大貫さんが何か他の花も探して下さるとおっしゃっていましたし、伺ってきます」
「ごめんね、わざわざ」
「いえ、お花を活けるのは好きですからお気になさらないで下さい。では念のため、万年青やキンポウゲは避けておきましょうか。鈴蘭など活けたコップの水を飲むだけで大人でも亡くなることがあるそうですし、相良さんでなくとも気をつけなくてはいけませんね」
「そ、そーなんだ…」
「ススキの葉先も栗のイガも目に刺さると失明すると聞きましたし、薔薇のとげは急性白血病で亡くなった方がおられたそうですし、何か安全なものはありましたかしら…」
 身近で意外なところに怖いものを発見してしまったかなめは、しっとりと会釈して退室した美樹原蓮を引きつった笑顔のまま見送ると、深々とため息をついた。
 つまり件の戦争バカが来たから身辺がキナ臭くなったのではなく、その方向性を濃厚に持つ土壌がそもそも我が身の回りにあったのではないのかという疑いを思いきりよく棚の上にぶん投げて、彼女はとりあえず差し迫った仕事である校内機関誌「陣校だより」の原稿のチェックをはじめた。
 しばらくして生徒会室に入ってきたのは、本業のせいで盛大に遅刻してきた安全保障問題担当・生徒会長補佐官の相良宗介である。
「ここにいたのか、千鳥」
「んー。おそよーソースケ。今日も重役出勤お疲れさま。出席するだけえらいわよね、もう放課後だけど」
「ああ、君も息災で何よりだ」
 と、生徒会副会長兼二年四組学級委員たる彼女の皮肉にも気付かぬままてきぱきと答えつつ室内をすばやくチェックした彼は、さっそく見慣れぬ花活けと水盆に疑り深い眼差しを向け、机の上に置いてある花器の周囲を回りながら矯めつ眇めつして盗聴器や危険な仕掛けの有無を調べながらかなめに尋ねた。
「千鳥。これは何だ」
「お花よ。植物。お連さんが先生に頼まれて活けたの」
「何という種類の植物だ。毒はないのか」
「ワレモコウよ。毒はないって」
「ワレモコウ?変わった名だが、意味はあるのか」
 旧日本軍の「ニイタカヤマノボレ」「トラトラトラ」を引用するまでもなく、自然物の固有名詞を暗号に使う例は多い、と厳しく表情を引き締めているのが丸わかりな声の宗介に、かなめは目を通した原稿を揃えながら「あーやっぱそう来るか」と思う。
 古文は訳文がいっぱしの空想科学小説ばりになるほどとことん苦手で、英語の方がまだ口語表現に馴染みの深い彼に「吾も恋う」の音のままでは、意味がすぐにわかるまい。日本語は同音異義語がやたらめったら多いから、口頭では説明がやりづらい。
 あー何だっけ。ミートゥじゃなくて、アイラヴユートゥ、でいいか。いちお。で現代訳のがコイツにはわかりやすいかな。
 うん、とうなずいた彼女は宗介が聴き取りやすいよう、はっきりした発音で言ってやった。
「私もあなたが好きよ」
 彼女の声が聴覚神経を経由して脳に届いた次の瞬間、前後の記憶が真っ白に吹っ飛んだ宗介は、彼女の言葉を全身全霊でもって解析しはじめる。
 「も」ということは自分が彼女を、というのが前提だ。
 だが自分は彼女にそういう言葉を前段階として告げてはいないはずだ。少なくとも先ほど音声情報として提示はしていない。
 ならば彼女はいつそれをどうやって、自分の様子あるいは周囲のどこから断定するに至ったのか。
 自分が彼女に向けている感情は、彼女にとってそう定義されてよいものなのか。
 彼女も自分に同じものを向けていると彼女は言ったが、自分の感情と彼女が向けられていると感じている感覚にズレはないのか。
 もしも彼女が級友であり戦友としてそう述べているのであれば、彼女が常磐恭子とのやり取りで何らかの事情で感情が高ぶったときに行っている「カナちゃん大好きー!」「あたしも好きよキョーコー!」などのように、可及的すみやかに返答せねばならないのだろうが、ああいったものと似た流れは無い以上、同じようにしてよいものなのだろうか。
 それ以前に、…そもそも自分の聞き間違えではないのか。
 そういったことを彼女の声で聞きたいという自分の願望が幻聴となって現れた、ということなら自分はそういった願望を持っているということになる。
 好意はお互いの信頼関係の醸成に必要不可欠だ。
 だが彼女と常磐とのありようややりとりと今の声音とは違っているようでもあるし、それがもし自分の願望によるものゆえであるなら、自分は彼女との間柄に何を望んでいるのか。
 そして、――聞き間違えでも幻聴でも、ないのなら、
 駆け出すように心臓が早鐘を打ち、肌が汗ばむのを感じながら宗介は、そっと彼女を伺い見る。
 席に着いてうつむき加減の細い背ときゃしゃな首は、いかにも激しい労働を知らぬ若い女性のものだ。清潔な制服におおわれていても、やわらかな曲線が見て取れる。
 つやのある黒髪にふちどられた色白の小さな顔に窓から差し込むやわらかな光が開いた書類に反射して、ほんのりと明るい。
 ページの端をつまむしなやかでほっそりした指先も潤む果物のような唇も、今初めて見たわけでもそうであったと気付いたわけでもなく、長くそろった睫毛は広げた扇の形に伏せられたままで、彼女がこちらを見ていないことが明らかなのが胸に刺さって痛くてたまらない。
 金髪の下品な同僚に訴えた症状は未だもって改善の兆しもなく、それどころかこんなふうに何かの拍子に立ち現れては心肺の奥深くを熱いのか冷たいのかわからぬ針で苛んでいく。
 この病が君の声と言葉で和らぐことを、君に伝えることが叶うなら。
 呼びかけようとした吐息の熱は彼女の肌からは遠すぎて、

 ふと何かに気付いたのか、かなめは強くまばたきすると立て板に水を流すより素早く解説をはじめた。
「って意味らしいのよ、あんた古文苦手だから誤解のないように現代訳しといたけど!
われもこうって発音を『ワレモ、コウ』って文節で切って『吾も』と『恋う』にかけてある一種の洒落ね。ひっくり返しても物騒な意味なんかないし、そもそも薬草らしいってお連さんに聞いたけど。何か出血に効くとかって話よ?っていうか大貫さんにもらったらしいし大貫さんこの花お気に入りみたいだから、あんまり粗末に扱うと怒られるわよ」
 なるほど、と答える声に、いつの間にか彼が間近にいたことに気付かされて、何故か急に頬が熱くなる。 
「名前のわりにというか名前通りというか、なんっか地味よねー。薔薇なんて花言葉が愛!とか情熱!ってけっこうまんまな感じだけどー」
 ねえ、とことさらに彼を強く振り向いて、ニヤっと歯を見せて笑ってやる。
 しおらしく「私も」だなんて、まったく自分らしくない。それ以前に彼がそういう意味を理解した上で、自分にその手の類の言葉を聞かせるだとか…想像するだけで落ち着かない。思い浮かべるだけで高笑いしながら窓をブチ抜いて全力でダッシュしたくなる。
 そういうのは、もっとこう、可愛くてきれいで大人しいけど芯がしっかりした子と、落ち着いて常識的だけど冷たくない包容力があって優しい人だとかそういう人達のものであって。
 こんな…見た目だけならともかく、親切で真面目ではあるけど小学生みたいな戦争バカと、まじめくさってらんないあたしみたいなノリで生きてる側で起きる出来事じゃない、と思う。
「そんじゃあたしもう帰るわ。その花、お蓮さんがまだいじるみたいだからさわっちゃだめよ。ここの鍵はお蓮さんが持ってるから閉めてもらっといて」 
 うんっ、と伸びをしたかなめは何となく肩に力の入った仕草で、棚に書類を収めた封筒を戻して部屋を出る。
 彼のいない場所に移った途端に漏れた細い息を、ひとごとひとごと、ないないない、と軽く頭を振って散らす。放課後とはいえ登校はしてきたのだから出席だけは付いているだろうし、特に怪我もしてなさそうだし。晩ごはんはどーせ向かいに住んでるんだから、出来がよければ声かけるか。洗濯ものも返さないとだし。
 頼りない足取りがずかずかしたものに変わるまでを思いきり生徒会室前に設置してある防犯カメラに撮影されていることも、設置した人物が持参のパソコンのモニタでそれを食い入るようにチェックしていることも知らず、誉められているのか貶されているのかわからないあだ名だらけの美少女は歩み去っていく。
 カメラの画像を次のポイントのものに切り替え鞄から取り出した受信機のアンテナを伸ばして小型だが高性能な双眼鏡をかまえた宗介は、眉間にしわを寄せたまま深く長くため息をついた。
 先ほど見た画像の中の彼女のどこか弱っているようでいるにも関わらず、気配に細やかな光の粒を混ぜたように色づいて見える姿が気になってしょうがない。
 自分の前ではけしてさらさない弱気な顔を、護衛の用であるとはいえ実は監視していたなどと知れたら、日頃はふざけているようで実は誇り高い彼女は、自分を側に寄せ付けなくなるだろう。
 それでも彼女の側で力になってやりたくてたまらない。…願わくば彼女の方から自分をあてにしてくれたなら、と思うものの明らかに疎い方面のことを頼られるはずもなく。
 どうしたものか、と悩んでいると生徒会室のドアが開いて、コスモスやススキの穂などを抱えた美樹原蓮が入って来、室内に宗介の姿を認めると可愛らしいものを見つけたかのように微笑んだ。
「まあ相良さん、今日も千鳥さんのストーカーお疲れさまです」
「……………」
「ここは私が閉めておきますから、もう帰って下さってもかまいませんよ?」
「…すまない。感謝する」
 慌ただしく機材を撤収して飛び出していく散歩前の大型犬のごとき背姿を見送った蓮は、割烹着の錯覚が見えそうな手つきで新聞紙にくるまれていた花束を会議机の上に置いた。